―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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悪に対する憤激

『地上天国』21号、昭和26(1951)年2月25日発行

 つくづく、現在の世の中を見ると、どうも今の人間は、悪に対する憤激が余りに足りないようだ。例えば悪人に善人が苦しめられている話など聞いても、昂奮(こうふん)する人は割合少ない。察するに、悪に対しいくら憤激したところで仕方がない、しかも別段自分の利害に関係がないとしたら、そんな余計な事に心を痛めるより、自分の損得に関係のある事だけ心配すれば沢山だ、それでなくてさえ、この世智辛(せちがら)い世の中は心配事や苦しみが多過ぎる、だから、見て見ぬ振りする。それが利口者と思うらしい。しかも世間はこういう人を見ると、世相に長けた苦労人として尊敬するくらいだから、それをみて見倣(なら)う人も多い訳である。
 また、政治が悪い。政治家や役人が腐敗している。社会の頭(かしら)だった人が贈収賄、涜職(とくしょく)事件等でよく新聞などに出ており、特に近来非常に犯罪が増え、青少年の不良化等も日本の前途を想えば、このままでは済まされないし、役人の封建性も依然たる有様だし、民主主義の履き違いで、親子、兄弟、師弟の関係などもまことに冷たくなったようだ。税の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)も酷過ぎるし、民主主義も名は立派だが、実は官主主義に抑えつけられて、人民は苦しむばかりだ。その他何々等々、数え上げれば限りのない程、種々雑多な厭な問題がある。これらことごとくはもちろん、社会的正義感の欠乏が原因であるに違いないが、何といっても、前途のごとくいわゆる利口者が多すぎるためであろう。しかしよく考えてみればそういう社会になるのも無理はない。いつの時代でもそうであるが、殊に青年層は正義感が旺盛なもので、悪に対する憤激も相当あるにはあるが、まず学校を出て一度社会人となるや、実際生活にぶつかって見ると、意外な事が余りに多く、段々経験を積むに随って考え方が変ってくる。なまじ不正に興奮したり、正義感など振り廻したりすると、思わぬ誤解を受けたり、人から敬遠されたり、上役からは煙たがられたりするので、出世の妨げともなり易いという訳で、いつしか正義感などは心の片隅に押し込めてしまい、実利本位で進むようになる。こうなるとともかく一通りの処世術を会得した人間という事になる。
 これらももちろん、悪いとは言えないが、こういう人間が余り増えると、社会機構は緩み勝となり、頽廃(たいはい)気分が瀰漫(びまん)し、堕落者、犯罪者が殖える結果となる。現在の社会状態がそれをよく物語っているではないか。そうして私の長い間の経験によるも、まず人間の価値を決める場合、悪に対する憤激の多寡によるのが一番間違いないようである。何となれば悪に対する憤激の多い人程骨があり、確(しっ)かりしている訳だが、しかし単なる憤激だけでは困る、ややもすれば危険を伴い勝だからである。事実青年などがとかく血気にハヤリ、人に迷惑を掛けたり、社会の安寧を脅す事などないとは言えないからで、それにはどうしても叡智が必要となってくる。つまり憤激は心の奥深く潜めておき、充分考慮し、無分別なやり方は避けると共に、人のため、社会のため、正なり、善なりと思う事を、正々堂々と行うべきである。これについて私の事を少しかいてみるが、私は若い頃から正義感が強く、世の中の不正を憎む事人並以上で、不正を見たり聞いたりすると憤激止み難いので、その心を抑えつけるに随分骨を折ったものである。しかしこの我慢は仲々苦しいが、これも修業と思えば左程でなく、また魂が磨かれるのももちろんである。この点今日といえども変らないが、これも神様の試練と思って忍耐するのである。このような訳で理想としては、不正に対し憤激がおこるくらいの人間でなくては、役には立たないが、ただそれを表わす手段方法が考慮を要するのである。すなわちいささかでも常軌を失したり、人に迷惑を掛けたりする事のないように、くれぐれも注意すべきで、どこまでも常識的で愛と親和に欠けないよう、神の心を心として進むべきである。


(注)苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)年貢・税金などをむごくきびしく取り立てること。