―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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悪人は病人なり

『栄光』131号、昭和26(1951)年11月21日発行

 この標題を見たら、誰しも首を捻(ひね)るであろう。なぜなれば、悪人でも、健康そうに見える者も沢山あるからで、むしろ悪人の方がそういう人間が多いくらいだ。しかしこれは表面から見るからで、内容すなわち霊の方は立派な病人なのである。というのはいつもいう通り、悪人というものは悪霊が憑依して、本守護神を押込め、正守護神を蹴ッ飛ばして、早くいえばその人の霊の大部分を占領してしまい、悪霊自身が主人公になり済まし勝手気ままに振舞うからである。
 その悪霊とは、言うまでもなく、狐、狸、龍神、その他の動物霊であるから、その行為は動物と大差ない事になる。従って人としたら到底出来得ない程の、無慈悲残虐な事を平気でやるどころか、反って面白がるくらいだから、いかに人間離れがしており、常識では考えられないかが分るのである。
 といっても人間誰しも副守護神、すなわち動物霊は生まれながらに憑いている事は、私が教えている通りであるが、これも人間の生存上止む事を得ないので、それは体欲が必要だから神は許されているのである。ところが悪人となると新しく動物霊が憑(かか)る場合と、元からいる右の副守護神が動物の本性を表わす場合との両方がある。ではどうしてそのようになるかというと、つまりその人の霊に曇りが生じ、その曇りが濃厚になるに従ってそれ相応の動物霊が憑く事になり、憑くと前述のごとく、人間の本霊の方が負けてしまうから、彼の思い通りになってしまい、活躍するのであるから、悪人とはすなわち霊の曇りが原因であって、その霊の曇り通りに血液も濁るから、いずれの日か猛烈な浄化作用が必ず起るのである。その場合曇りの程度の苦痛が生まれる。それが不時の災難や、病気その他の不幸の原因となるのである。面白い事にはよく大悪人がいささかでも反省の念が湧き、仏心が起ると間もなく悪事が露見し、捕まるという事をよく云われるが、それはヤハリ浄化が発(おこ)ったからである。また悪旺(さか)んなれば天に勝ち、天定まって人に勝つという諺(ことわざ)などもその意味で、つまり人間は心に曇りが溜ると、苦しみによって浄められる天則のためである。
 こうみてくると、悪人になる原因は吾々から見ると霊の曇りで、立派な病人なのである。もちろん大悪人程、浄化も猛烈であり、大苦痛が起り、大病人となるのは言うまでもない。ところが霊に曇りが生ずるという事は、本守護神に力、すなわち光が足りないからで、それを免れるには宗教によらなくてはならないという訳になる。従って信仰に入り、常に神に向かっていれば、霊線を通じて神の光が魂に注入され、光が増えるから曇りが減るので、そのため動物霊は苦しみ、居候(いそうろう)の方は早速逃げ出すが、元からいる副守護神は縮んでしまい、悪は出来なくなるのである。この理によってみても、神に手を合わさない人は、いついかなる時、何かの動機に触れて悪人になるかも分らない危険があるのだから、無信仰者は危険人物といってもいいので、現代社会はこの危険人物が多いかは、右によっても分るであろう。全く社会悪が一向減らないのも右の理に因るのである。従って現在いかに善人であっても無信仰者である限り、真の善人ではなく、言わば悪人の素質をもっている善人に過ぎないので、無信仰者には絶対気は赦(ゆる)せないのである。昔から人を見たら泥棒と思えというのは、無信仰者を指したものであろう。ところが右のような簡単な理屈でさえ、今の偉い人も政府当局者も、全然判らない結果、宗教を否定し、法のみに頼って悪をなくそうとするのであるからいかに間違っているかが分るであろう。