―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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新しい愛国心

『栄光』185号、昭和27(1952)年12月3日発行

 この愛国心という言葉ほど、世界共通のものはあるまい。どんな国でもこれを金科玉条としていない国は恐らくないであろう。日本においても終戦前までは、他国に見られない程の旺盛な愛国心が国民全般に漲(みなぎ)っていた。その原因はもちろん天皇制のためもあり、天皇をもって国民のシンボルとし、現人神として崇(あが)め奉(たてまつ)っていたので、吾々の記憶にも明らかなところであるが、それというのも万世一系の天皇としての尊信が、国民感情をそうさせたのはもちろんであると共に、一派の野心家や権力者輩も教育に宣伝に極力煽って、自己の都合のいいように仕組んだのは誰も知るところであろう。その結果外国にも見られない程の特殊的国家が出来上り、自称神国としてひとりよがりになってしまい、それ程の金持でもない癖にわがまま坊ちゃんのようになっていたのである。
 その上御用学者などという連中も、歴史的論理的に巧みに自尊心を昂めたのだから堪らない。忠君愛国思想はいやが上にも全国を風靡し、国民は何事も国のため、陛下のためとして生命を犠牲にする事など何とも思わないようになってしまい、これが最高道徳とされていたのである。それが彼の敗戦によって見事自惚(うぬぼれ)根性は吹っ飛び、反って劣等感さえ生まれたのである。しかもその際天皇の御言葉にもある通り“私は神ではない、人間である”との宣言もあって国民は驚くと共に、新憲法も生まれ、政治の主権は人民にあるという、日本にとっては破天荒ともいうべき、民主主義国家となったのであるから、全く開闢(かいびゃく)以来の一大異変であった。そこへ天皇の御退位も加わり、識者は別としても、的を失った国民大衆の前途は暗澹となり、そのの帰趨に迷わざるを得なくなったのは誰も知る通りで、現在もそれが続いているのである。
 それについて面白い事があった。終戦直後の事、私に会う人達は誰も彼も“到頭神風は吹きませんでしたね”と言い、残念そうな顔つきなので、私はこういってやった。“冗談じゃない、正に神風は吹いたじゃないか、君らは神風を間違えていたんだ。本来善を助け悪を懲らすのが神様の御心なのだから、日本の方が悪である以上負けたのは当然である。だからむしろ有難いくらいで、お祝いしてもいいんだが、そうもゆかないから黙っているだけの事で、いずれは分る時が来るだろう”これを聞いて彼らは“よく分りました”といい、晴々として帰ったものである。
 これによってみても、それまでの日本人は国家の事になると善悪などは二の次にして、ただ利益本位にのみ物を考えていたので、八紘一宇(はっこういちう)などという飛んでもない御題目まで唱えはじめ、自分の国さえよくなれば他の国などどうなってもいいというようになり、これが忠君愛国とされて、馬車馬的に進んだのであるから、全く恐るべき禍根はこの時からすでに胚胎していたのである。
 以上によって考える時、愛国心といってもその時代時代に適合すると共に、善悪正邪の観念を根本としたものでなければ、国家百年の大計は立てられないのである。そこで私は今後の時代に即した愛国心とはどういうものかをかいてみるが、最も分り易く言えば、それまでの日本は小乗的考え方であったのを大乗的に切換える事で、これが根本である。一口に言えば国際愛であり、人類愛である。つまり日本を愛するがゆえに世界を愛するのである。それというのも今日は一切万事国際的になっており、孤立や超然は最早昔の夢となったからである。従って今後の愛国心を具体的に言えばこうである。吾々同胞九千万人の生命の安全を第一とするのはもちろん、道義的正義の国家として、世界の尊敬を受ける事である。それについても今旺んに論議されている再軍備問題であるが、これに対しては余程前から賛否両論相対立し、中々解決がつかないのは困ったものであるが、私からいえば左程難しい問題ではない。何となれば実際問題として考えれば直ぐ判る。それは『日本に対し侵略する国が絶対にないという保証がつけば、再軍備は止めるべしだが、そうでないとしたら国力に応じた再軍備は必要である』ただこの一言で分るであろう。

(注)
金科玉条(きんかぎょくじょう)
金玉の科条(法律)のこと。最も大切にして守らなければならない規則、法律。
万世一系(ばんせいっけい)
同一の系統が永遠に続く事。戦時中に天皇家を指していった。実際は古墳時代以前はいくつかの系統があったとされる。それを考慮に入れても記録がある世界最古の血統といえる。
八紘一宇(はっこういちう)
世界を一つの家とすること。太平洋戦争期、日本の海外侵略を正当化するため使われた標語。