―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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肺炎と結核

『結核の革命的療法』昭和26(1951)年8月15日発行

  寒冒と最も密接な関係ある病気としては、言うまでもなく肺炎と結核であろう。特に現在日本において、最も悩みとされているものはこれであるから、充分解説 する必要があろう。そもそも肺炎と結核という病気の初因は、もちろん寒冒からである。というのは前項に述べたごとく、せっかく寒冒という浄化作用が発生す るや、医療は極力停止させようとして、種々の手段を行う。これも既に述べた通りであるが、その中の最も不可であるのは、薬剤と氷冷である。元来薬剤とはい かなるものであるかというと、ことごとく毒物である。にもかかわらずなぜ毒物を薬剤として、用いるようになったかというと、今までに説いたごとき、浄化作 用停止に最も効果があるからである。
 ここで、浄化作用なるものの本質を説いてみるが、さきに述べたごとく、体内の毒素を排除すべく、生まれなが らに保有している自然良能力である。従ってこの力の強弱によって、浄化力にも強弱が出来る。何よりも結核が青少年に多いという事は、浄化力が旺盛であるか らで、壮年から老年に及ぶにしたがい、減少するのもその理由であり、また各種の伝染病が、青少年や小児に多いのも同様の理である。そこで病気すなわち浄化 発生の場合、医学は浄化を極力止めようとする、それには何よりも体力を弱らせる事である。その唯一の方法として考えられたのが、毒物を体内に入れる事で、 それによって体力が弱るから、浄化も弱り、病気症状も軽減するという訳である。
 また氷冷はなぜ不可かというと、毒素を溶解すべき熱を冷すから浄 化が弱り、元通り固まり、それだけ苦痛も減る事になる。もちろん、湿布も同様であって、ただいささか異(ちが)う点は、人体は不断に皮膚の毛細管からも呼 吸しているので、それを窒息させるから、その部の浄化は停止され、症状は緩和するのである。特に近来注射が流行するが、これも毒分の強い薬は、服んでは中 毒の危険があるから皮膚から注入するのである。
 寒冒に罹った場合、右のごとく薬毒やその他の方法で、浄化停止を行う以上、保有毒素の幾分は減る が、大部分は残存し、再び固まってしまうと共に、新しい薬毒も追加されるので、寒冒に罹る毎に毒素は累加し、ある程度に達するや、一時に浄化活動が起る。 それが彼の肺炎である。何よりも肺炎の特異性は、喀痰が肺臓内に多量に溜る事で、そのため喘音(ぜんおん)がはなはだしいのである。喘音とは呼吸の度に肺 胞が動くにつれての喀痰の響きである。また呼吸困難は喀痰多量のため、肺臓内の容積が縮小するから必要量の空気を吸うには、頻繁に呼吸しなければならない からである。この理によって肺炎の場合、何らの療法もせず、自然にしておけば痰は出るだけ出て順調に治るのである。ところが医療はあらゆる手段によって浄 化を停止させようとする。何よりも肺炎に対しては医療は特に強い薬を用いる。強いとは毒が強いという訳で、浄化停止に強力だからである。そんな訳で強い浄 化と強い浄化停止とで、猛烈な摩擦が生じ、非常な苦痛が伴う。そのため食欲減退、高熱による体力消耗と相まって、衰弱死に至るのであるから、医学の誤謬た るや言うべき言葉を知らないのである。
 右のごとく肺炎は強烈な浄化である事は体力が旺盛であるからで、体力の弱っている人は浄化が緩慢(かんま ん)に発(おこ)る。それが結核である。そうして医師が初めての患者を診断する場合、種々な方法の中今日最も決定的とされているものはレントゲン写真であ る。これは肺臓内の雲翳(うんえい)または空洞が写るからで、これを見て結核と断定するが、医学はこれは何が原因であるかを知らない。次にその原因をかい てみるが、寒冒の説明にもある通り、最初液体となった毒素が、一旦肺臓内に侵入停滞した時、極力浄化停止を行う結果、喀痰は排泄されず肺臓内に残存してし まい、日を経るに従って固結となる。それが雲翳であってみれば、これは全く人為的所産と言えよう。ゆえに最初の液体侵入の際は、肺臓は何ら異状〔常〕はな いのである。そうして固痰の位置が比較的上部の場合は、肺尖カタルまたは肺門淋巴腺というのである。それと似たものに肺浸潤がある。これは軽微な肋膜炎ま たは肋骨付近に溜結せる毒素が浄化溶解し、肺臓内に浸潤吐痰となろうとするので、この場合も医療は固めようとするから容易に治らない。もちろん右はいずれ も放任しておけば、順調に治癒するのである。
 そうして一度結核と断定するや、寒冒と同様医療は極力浄化停止を行うが、それに対し最も効果ありと されているのが、近来熱心に推奨されている彼の安静法である。ところがこの安静法が曲者である。何となれば仮に健康者が一カ月も安静にすれば、運動不足で 食欲は減退し、体力は減り、外出しないため顔色は悪くなり、目に見えて衰弱する。ちょっと動いても息切れをするようになるとしたら、言わんや病人において をやである。なおその上薬毒を入れられ、栄養と称して動物性蛋白を多く摂(と)らせるが、右はことごとく衰弱を増させる方法であるから、結核患者ならずと も衰弱するに決っている。
 このように衰弱法を行う結果、予期通り浄化力は極度に減退し、症状は減りついに無熱となり、咳も吐痰も無くなるので、 これで恢復したと思って喜ぶが、何ぞ知らん実は浄化以前の状態に還元させたまでで、結果は反って薬毒は増し、体力は弱り、消極的小康を得たまでで、真に 治ったのではないから、何かの機会に触れるや、俄然悪化し重態に陥り、ついに死に至る事が往々ある。こういう経路は医家もよく経験するところであろう。ゆ えに医学では決して治るとは言わない。固めるというにみても明らかである。また経過中に患者がたまたま少し運動でもすると直に発熱する。すると医師はあわ てて戒めるが、これは運動によって鎮静していた浄化が頭をもたげるからで、本当はいいのである。よく長い間掛ってようやく治ったといわれ、ヤレ安心と普通 の生活を始めるや、間もなく再発、元の木阿弥(もくあみ)となる事もよくあるが、これらも何年掛りでようやく固めた毒素が、俄(にわ)かに溶け始めたため である。以上によって明らかなごとく、今日の医療がいかに誤っているかで、忌憚なく言えば医療が結核を増やしていると言っても過言ではなかろう。
  ここで、結核菌について大いに注意したい事がある。医学では結核菌は伝染するとして恐れるが、それもない事はないが、大部分は自然発生である。前述のごと く最初喀痰が肺臓内に侵入するや、医療は固めて出なくするので、時日の経過につれて腐敗し、微生物が発生する。これが結核菌である。そうなった痰は悪臭が あり、粘着力が強いものである。考えてみるがいい、いかなる物質でも古くなれば腐敗する、腐敗すれば微生物が湧くのは物質の原則である。ましてや体温とい う好条件も手伝うからである。これによってみても最初の寒冒時、肺臓内に喀痰が滞溜した時、極力出してしまえばそれで済んでしまう。それを一生懸命出ない ようにして腐敗させ、菌まで湧かせ、菌の蚕食(さんしょく)によって空洞さえ作るのであるから、結果からいえば善意の加害的行為とも言えるであろう。この 理に目醒めない限り、今後いかに多くの犠牲者が出るか測り知れないものがあろう。