―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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医学と浄霊

『栄光』142号、昭和27(1952)年2月6日発行

 本教が在来の宗教とは、根本的に異(ちが)う事を常に私は筆でかき、口で解説しているので、信者としてもその意味を、絶えず世間へ宣伝しているであろうが、何しろ世の中は広いから一般に知れ渡るのは容易な事ではない。しかも智識人に至っては、殊に信じようとしない。彼らは宗教とさえ言えば、十把一紮(いっさつ)に見る癖があり、本教を目する場合も、右の観念が邪魔をして、真相など分るはずはないのである。
 ではどの点が異っているかというと、世間でも知っている通り、本教が最も力を入れているのが病気治しである。これに対し一般はどういう解釈をしているかというと、こうであろう。どうせ信仰的に治すのだから、まず病人に対(むか)って暗示を与える。貴方の病気は医者や薬では治らない。神様に御願いすればきっと治る。元々病気は罪穢のためであるから、私は貴方に代って神様にお詫びをして上げるから大丈夫ですと言われるので、迷える小羊は丸呑みにして有難がり信じてしまう。という精神作用の働きによって治るのだから、ある種の病気に限る。例えば精神的疾患である神経衰弱とか、または外部的疾患である神経痛、リョウマチのごときものや、首肩の凝り等、ちょうどマッサージか按摩療法的に思っている。だから肺、心臓、胃腸病のごとき、内臓の病気は駄目だから、こういう本格的病気は、進歩した現代医学に頼るより外ないとしている。まずこれが一般人の考え方であろう。
 ところが吾々からみると、これが大変な誤りでむしろ反対である。それを詳しくかいてみるが、本教の治病方法はもちろん浄霊であるが、これは患者の身体には全然触れず、数尺離れてただ掌を翳すだけなので、これを見たら誰もは、こんな事で病気が治って堪るものか、人を馬鹿にするにも程がある。全く迷信に違いないと決めてしまうのである。
 ところがこれで重難病がドシドシ治るのだから、実に摩詞不思議だ。事実治病効果は医学の一に対し、浄霊の方は百といっても過言ではあるまい。しかも医学の方はヤレ外科とか、内科、脳神経科、婦人科、小児科等々、それぞれ専門に分れているに反し、吾々の方は精神的疾患でも、機質的疾患でも、病気と名のつく病気はことごとく浄霊一本で治してしまう。
 そうして今日一般の人は、病気に罹るや信者は別だが、初めから吾々の方へ来る者は一人もあるまい。まずお医者に行くのが常識である。ところが少し拗(こじ)れると仲々思うように治らないので、医者を取替えたり、博士や大病院へ行ったりする。それでも治らない結果、迷いに迷って民間療法や在来の神信心と来るのが御定法(ごじょうほう)である。それでも治らないばかりか、段々悪くなる一方なので、どうしていいか分らなくなり、文字通り進退きわまってしまう。その結果藁でも掴みたい心境になった時、たまたま本教の話を聞くが、今まで色々な信仰に懲りているし、おまけに新聞雑誌などのデマやインチキ宗教に引っ掛かるな、などの注意が頭にコビリついているので、一時は躊躇(ちゅうちょ)するが、熱心な勧めと堪えられぬ病苦とで意を決し、ともかく試してみようと思い、疑い疑い来る人がほとんどである。そこでいよいよ来て見ると、これはこれはなるほど看板は、世界メシヤ教何々支部、何々分所などと大きな名前が出ているが、家はとみれば精々サラリーマン程度の、ちょっとした住宅なのでガッカリする。といってせっかく訪ねて来て帰るのも残念だと、思い切って小さな門から格子戸を潜ると、これはまた二度ガッカリ、精々二間か三間くらいの古ぼけた部屋で、先生はと見れば玄関子(げんかんし)兼帯と来ている。そこで御指図通り煎餅蒲団へ座り、ここでヤット先生の御顔を拝見に及ぶとこれまた風采の上らぬ事おびただしい、何しろサラリーマン、小商人、農民や職工上りなどの人が多いので、その言葉も智識人らしからず、その上今まで聴いた事もないような突飛な事をいう。薬は毒だ、医者が病気を作るなどの御託宣と来るので、唖然としてしまい、何が何だか分らなくなる。そこでいよいよ御浄霊となると、先生は機械らしいものは何にも用いず、ただ空間に手を翳すだけである。これを見た患者は何しろ子供の時から、病気は薬と機械で治すものと教育されており、空間は空気だけで、何もないと思っているから、空中へ掌が浮んだだけで、相手の難病が治るなどとは余りに超科学で、丸で狐につままれたようだ、という訳で精神的影響など薬にしたくもない。むしろ逆に疑いが増すばかりである。それに引き換え医学の方はどうであろうかをかいてみるが、何しろ先進文明国始め、日本においても国家的に医学を援助奨励し、大学教育までが医学を重要視しており、全世界の科学者は何百年も前から専心、研究に研究を尽している結果、益々微に入り細にわたって進歩し、発達して来たのであるから、人間は病気は医者と薬より外治るものはないと信じ切っている。としたら精神的にいっても、百パーセント医学の方が有利であり、しかも大病院などの、アノ大ビルかホテルのごとき豪壮建築、内部の完備せる施設、専門専門の有名な博士の名を連ねた看板、これが待合室の壁に御神体のごとく輝いており、白衣の天使は忙しそうに、街路のごとき長廊下を右往左往している。これを見ただけでどんな人でも度胆を抜かれ、なるほど医学は進歩したもんだ、これではどんな病気でも治らない事はないと、腹の底から感嘆し、信じてしまうのである。
 以上は医学の素晴しさと、吾々の方の貧弱さを比べてみたのである。ところがどうだ、その治病効果たるや、最初にもかいた通り全然逆であるのは、医学で見離した病人がドシドシ治ってゆく、全く二十世紀の奇蹟と言うより外言葉はない。としたらここで考えなくてはならない事は、もし医学で病気が真に治るとしたら、それで済んでしまうから、科学性もない不安な民間療法や信仰療法などに、大切な生命を委せる馬鹿はないはずである。にもかかわらず事実は医学以外の療法が相変らず繁昌している。特に本教のごときは浄霊の効果と、すべてが正確なので、心底から信じて安心し、医薬から離れてしまう人は、日に月に激増しつつあるのである。としたら医師諸君も、大いに考えざるを得ないであろう。そうしてこの文の要点である信仰療法は精神的影響などは、全然無いという一事を知らせたいのである。