―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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医学の解剖

『結核の革命的療法』昭和26(1951)年8月15日発行

 私は前項までに、医学の誤謬を大体かいたつもりであるが、なお進んでこれから鋭いメスを入れて、徹底的に解剖してみよう。といっても別段医学を誹謗する考えは毫末(ごうまつ)もない。ただ誤りは誤りとして、ありのまま指摘するまでの事であるから、虚心坦懐になって読まれたいのである。それにはまず事実によって、説明してみる方が早かろう。まず何よりも医師が患者から、病気の説明を求められても、断定的な答えは出来ない。はなはだ曖昧模糊(あいまいもこ)御座なり的である。また予想と実際と外れる事の、いかに多いかも医家は知っているであろう。
 そうして、最初診察の場合、型のごとく打診、聴診、呼吸計、体温計、レントゲン写真、血沈測定、注射反応、顕微鏡検査等々、機械的種々な方法を行うが、医学が真に科学的であるとすれば、それだけで病気は適確に判るはずである。ところが両親や兄弟等の死因から、曾父母、曾々父母にまで及ぶのはもちろん、本人に対しても、病歴、既応症等微に入り細にわたって質問するのである。これらも万全を期す上からに違いないが、実をいうと余りに科学性が乏しいからと言えよう。そうまでしても予想通りに治らないのは、全く診断が適確でないか、または治療法が間違っているか、あるいは両方かであろう。事実本当に治るものは恐らく百人中十人も難しいかも知れない。何となれば仮に治ったようでも、それは一時的であって、ほとんどは再発するか、または他の病気となって現われるかで、本当に根治するものは、果して幾人あるであろうか疑問と言えよう。この事実は私が言うまでもない。医師諸君もよく知っているはずである。この例として主治医と言う言葉があるが、もし本当に治るものならそれで済んでしまうから主治医などの必要はなくなる訳である。
 右によっても判るごとく、もし病気が医学で本当に治るとしたら、段々病人は減り、医師の失業者が出来、病院は閑散となり、経営も困難となるので、売物が続出しなければならないはずであるのに、事実はおよそ反対である。何より結核だけに見ても、療養所が足りない、ベッドが足りないと言って、年々悲鳴を上げている現状である。政府が発表した結核に関する費額は、官民合せてザット一カ年一千億に上るというのであるから、実に驚くべき数字ではないか。これらによってみても、現代医学のどこかに、一大欠陥がなくてはならないはずであるにかかわらず、それに気が付かないと言うのは不思議である。というのは全く唯物科学に捉われ、他を顧みないからであろう。
 そうして、診断についてその科学性の有無をかいてみるが、これにも大いに疑点がある。例えば一人の患者を、数人の医師が診断を下す場合ほとんど区々(まちまち)である。というのはここにも科学性が乏しいからだと言えよう。何となればもし一定の科学的基準がありとすれば、そのような事はあり得ないではないか。もし医学が果して効果あるものとすれば、何よりも医師の家族は一般人よりも病気が少なく、健康であり、医師自身も長寿を保たなければならないではないか。ところが事実は一般人と同様どころか、反って不健康者が多いという話で、これは大抵の人は知っているであろう。しかも医師の家族である以上、手遅れなどありよう訳がないのみか、治療法も最善を尽す事はもちろんであるからどう考えても割り切れない話だ。そればかりではない。医師の家族が病気の場合、その父であり夫である医師が、直接診療すべきが常識であるにかかわらず、友人とかまたは他の医師に診せるのはどうした事か、これも不思議である。本当から言えば、自分の家族としたら心配で、他人に委せる事など出来よう訳がないはずである。それについてよくこういう事も聞く、自分の家族となると、どうも迷いが出て診断がつけ難いと言うのである。としたら全く診断に科学性がないからで、つまり推定臆測が多分に手伝うからであろう。
 私は以前、某博士の述懐談を聞いた事がある。それは仲々適確に病気は判らないものだ、何よりも大病院で解剖の結果、診断と異(ちが)う数は、ちょっと口へは出せない程多いといった事や、治ると思って施した治療が、予期通りにゆかないどころか、反って悪化したり、果ては生命までも危なくなる事がよくあるので、こういう場合どう説明したら、患者もその家族も納得するかを考え、夜も寝られない事さえしばしばあり、これが一番吾々の悩みであるというので、私もなるほどと思った事がある。
 このように、医学が大いに進歩したと言いながら、診断と結果が、実際と余りに喰違うので、医師によっては、自分自身医療を余り信用せず、精神的に治そうとする人もよくあり、老練の医師程そういう傾向がある。彼の有名な故入沢達吉博士の辞世に「効かぬと思えどこれも義理なれば、人に服ませし薬吾服む」という歌は有名な話である。また私は時々昵懇(じっこん)の医博であるが、自身及び家族が羅病の場合、自分の手で治らないと私のところへよく来るが、直に治してやるので喜んでいる。以前有名な某大学教授の医博であったが、自身の痼疾(こしつ)である神経痛も令嬢の肺患も、私が短期間で治してやったところ、その夫人は大いに感激して、医師を廃め、本療法に転向させるべく極力勧めたが、地位や名誉、経済上などの関係から決心がつき兼ね、今もってそのままになっている人もある。今一つこういう面白い事があった、十数年前ある大実業家の夫人で、顔面神経麻痺のため、二目と見られない醜い顔となったのを頼まれて往った事がある。その時私は何にも手当をしてはいけないと注意したところ、家族の者が余り五月蠅(うるさ)いので、某大病院へ診察だけに行ったが、その際懇意であるその病院の医長である有名な某博士に面会したところ、その医博いわく「その病気は二年も放っておけば自然に治るよ。だから電気なんかかけてはいけないよ。ここの病院でも奨めやしないか」と言われたので「おっしゃる通り奨められましたが、私はお断りしました」と言うと、博士は「それは良かった」という話を聞いたので、私は世の中には偉い医師もあるものだと感心した事があった。その夫人は二カ月程で全快したのである。
 さていよいよ医学の誤謬について、解説に取り掛かろう。

(注)
痼疾(こしつ)、容易に治らないで、長い間悩まされている病気。持病。