―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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御神体奉斎に就いて

『栄光』255号、昭和29(1954)年4月7日発行

 これは滅多にはないがどうかするとたまにはある事だから、ここに注意するのである。例えば最初妻君が入信し、熱心な余り主人や息子がまだ分らない内に、御神体をお祀りする。それをまたいいとしている教師もあるが、これは大変な間違いである。いつかも言った通り一家中全部が信仰へ入るとか、そうでなければ相当理解が出来てから、快く御祀りするのが本当である。そうでなく一人でも反対者があるとしたらしばらく時を待つべきであるが、何とかして早く入信させたい焦りから、御祀りするのであろうし、またそうすれば早く分ると思うからであるが、これは人間の考え方で神様の方は別である。つまりその人それぞれの罪の軽重、因縁、使命等によって、入信の時期も遅速があるから、総ては神様にお任せしていればいいのである。
 それについて最近某中教会長が質(たず)ねた事は、会員の一人である、ある妻君が来ての話に、どうも主人が分らなすぎて困っていたところ、最近ある晩の事泥酔して帰宅するや、何を思ったかイキナリ御神体を破り、神様に関したものは片っ端から放り出すので吃驚(びっくり)し、いくら歎願しても言う事を諾(き)かなかったので全く申訳のない事を致しました、何卒(なにとぞ)御無礼の段は御赦(ゆる)しをお願い致したく、明主様に御取次して頂きたいと申して来たので、いかが致したら宜(よろ)しいでしょうかとの事で、私はこう答えた。
 それは私が常に言っている事を忘れたからで、一人でも反対者がある場合、決してお祀りしてはいけないと戒めている。それに気が付かないとしたら、つまり御神書の拝読が足りないからである。そこで何より心得べき事は、信仰の根本は本人の自由意志であって、止むに止まれぬ信仰心が湧くのが根本である。それを何でも彼(か)んでも無理に分らせようとするから逆結果となり、反って入信の時が遅れるのである。これについて一番知らねばならない事は、世の中の事は二二(ににん)が四(し)ではいけない。二二が六、二三が七というように、理外の理のある事を悟るべきで、特に信仰においてをやである。つまり何事も結果によって判断すべきで、これが千変万化、融通無碍(ゆうずうむげ)の観音行であるから、この理を充分肚の底へ畳み込んで活動すれば、必ず巧くゆくはずである。