―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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五六七大祭

『救世』53号、昭和25(1950)年3月11日発行

 いよいよ本教救世教となって第一回の五六七大祭を例年のごとく三月五日、六日、七日の三日間に執行われる事になったのは、まことに芽出度い限りである。
 この意味によって、今日の祭典の重要なる意味を思う時感慨無量である、私が御神業に身を投じたそもそもの第一歩は昭和三年二月、節分の日であったから、今年でちょうど二十三年目である、この二十三年間に基礎工事が成ったので、いよいよ本格的に発足すべく陣容を整え、世界人類救済の大旆(たいはい)を翳(かざ)して、本格的活動に入らんとするのである、言わば今までは楽屋で扮装していたようなもので、扮装が出来上ったので、ここに舞台へ登るようなものである。
 大体、メシヤとはキリスト教と深い関連があるので、この解釈は欧米においても諸説紛々として今もって決定はされないようである、というのは人智では深い神秘の奥を探り当る事は困難であるからである。
 私自身としてもいまだメシヤとは名のらないと共に、キリストの再臨ともいわない、これはある時期までは神様から発表を禁じられているからでもある、もっとも仮にメシヤの降臨などと思われでもしたら大変である、世界中からワーワーとやって来て、到底仕事など出来るものではないからである。
 今日確実にいえる事は、世を救うべく大経綸を行う事である、これは現に私が行いつつある事実を見れば判る、救世教の名を冠したのもそのためである。
 ここで特に言うべき事がある、それはあらゆるものが世界的になった今日、既成宗教はいまだほとんどが、限られたる地域内救いの業であるに見て、全人類を救うべき使命ではなかった事を知るべきである、ただキリスト教のみは、全人類の救いが使命であるから、今日のごとき大を成したのである、といっても現在のごとき全人類の一大苦悩を救い得らるるかは大いに疑問の余地があろう、何となれば事実が明らかにそれを示しているからである、忌憚なくいえる事はもはや宗教そのものの力ではどうにもならないので、これは識者の等しく唱えるところである、ここにおいて率直にいえる事は、宗教以上の力が出なくてはならない事で、これが超宗教でなくて何であろう。
 元来、宗教とは読んで字のごとく宗祖の教えである、彼のバイブルといい経文といい、コーランというも畢竟(ひっきょう)文字を介して教え人間の魂を目覚めさせるのであるから、畢竟人間の自力である、ところが今日はもはや人間力では間に合わない事になった、もちろん教えも必要ではあるが、それ以上大神力の発揮がなくてはならない、といっても生神様的個人の力でもむずかしい、どうしても全人類を主宰し給う主の神すなわちエホバの絶対力の発現である、もちろん人類発生以来今日まで、右のような大神力は出なかった、それは地上天国準備だけの力でよかったからである、言わば本教と同様これまでの世界は楽屋であった訳である、ところがいよいよ時期熟して世界はここに一大転換と共に、天国樹立という神の理想実現となったのである。
 この事が根本であって、これを深く認識する事によって初めて大神業に参加され得る資格者となるのである。

(注)
大旆(たいはい)、日月と昇竜・降竜とを描いた大きな旗。昔、中国で、天子または将軍が用いた。堂々たる旗印のこと。