―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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日本の議員

『救世』52号、昭和25(1950)年3月4日発行

 最近日本の議員団が米国の議会を視察した、その談によれば、同国の議会では野次や喧噪などほとんどなく、真面目にして上品な空気は実に羨しいとの事である、ところが右に引換え日本の議会のあの為体(ていたらく)はどうであろう、野次、怒号、漫罵(まんば)はては腕力が飛び、喧々囂々(けんけんごうごう)議長の制止も聞かばこそ、全く市井(しせい)の無頼漢(ぶらいかん)の集合と何ら変りはないと言ってもいい、吾々はそれを見たり聞いたりする毎に、余りの情なさに慨歎せざるを得ないのである、しからば日本においてはそのようなレベルの低い議員ばかりが出来るのはいかなる訳かを深く検討してみる必要があろう。
 それについて、私は今日まで人から議員に出ないかと奨められた事も度々あったが、どうしてもその気にはなれない、もっとも私の使命から言っても不可能ではあるが、そういう差障りがないとしても到底その気にはなれない、というのは日本の議員になるまでの複雑な事情を考えてみるとウンザリするからである、それをありのままここにかいてみよう。
 本来議員なるものは国民の代表者とされ国民の総意を政治に反映する担当者である、従って選ばれるところの人は人民の方から推薦されやむを得ず候補に立つのが本当である以上、己れの職業を放擲(ほうてき)し、一切を顧みず天下公共のため、ある程度一身を犠牲にする覚悟をもって、議政壇上の人となるので、実に崇高博愛的精神の発露であるのはもちろんである、だから人民から尊敬と感謝を受けるのは当然で、国家も特別な栄誉と待遇を与えている、とすれば候補者として選挙戦に上るとすれば、運動費一切は選挙民が負担すべきである、それのみではない、国事のため職業を放擲する以上、議員の生活費一切をも人民が負担し後顧の憂なく政治に没頭させるべきである、かようにして当選した議員としたら人格高潔絶対の信頼を払うに足る人物たる事はもちろんで米国に劣るような心配はない訳である。
 ところが、日本における現実はどうであろうかを観る時、右とあまりにも反対である、見よ候補者の方から選挙民へ頭を下げ、迎合をし感情に訴える事を運動の第一義としている、実に理屈に合わない事おびただしい、もちろん運動費一切も候補者が出すのだから不思議である、中には法規を潜(くぐ)り選挙民を御馳走してまで御機嫌をとったりヒドイのは買収までするのだからおよそ世の中にこんな理屈に合わない話はあるまい、しかしそうまでしなくては当選しないのだから、馬鹿馬鹿しいとは知りつつもそうするのである、という事は、そこに何かがなくてはならない、何かとはもちろん、利益との交換である、とすれば少数者の利益のために多数者の利益を犠牲にする事になる、それが政界の腐敗であり、選挙の堕落の原因であるから厄介な日本の政治である。
 しかも、社会は右のような間違った事に対し余り怪しまない、なるほど新聞はじめ国民は常に非難はしているがはなはだ微温的である、従って彼らはそれをいい事にして相変らず醜悪な選挙によって定数の議員を輩出しているのが現在である、以上によって考える時、こういう結論となろう、もし仮に真に立派な人物とすれば右のような理屈に合わない馬鹿馬鹿しい事をしてまでも、議員になろうと決して思うまい、しかも多額の運動費さえ使うにおいてをやである。
 右のごとく、多額の運動費を使い、不純な方法までして、当選しようとするのであるから、それ相応の人物しか出ない事は余りにも明らかである、そうして一度当選するや、無上の栄誉と思い、議員の肩書をヒケラかし、国民の選良とか何とかいって肩で風を切って威張っているのであるから変な世の中である、これでは全く立派な人間は蔭に潜み、下劣な人間のみが議員になる結果となるから、最初に述べたごとき匹夫(ひっぷ)野郎的行動はむしろ当然というべきである、以上吾らははなはだ憎まれ口を利くようだが真に国家を憂うる余り赤裸々な批判を試みざるを得ないのである。
 しからば、いかにすればいいかというに日本人全体の政治的道義観念を高める事で、真に国を憂い大衆の福利を念願とする人間を作るべきである、それには何よりも指導階級の目覚めるこそ最も喫緊事であろう。
 最後に一言したい事は宗教教育である、米国議員の優秀である事の根本としては全くキリスト教信仰のためである事はいなめない事実であるから、日本もこれに鑑(かんが)み真に価値ある宗教信仰を奨励する事である、これより以外、この問題を解決すべき有力な方法のない事を警告するのである。