―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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霊界の不思議

『地上天国』9号、昭和24(1949)年10月25日発行

 霊界なるものは、実に霊妙不思議な存在であって、現世人の常識判断では到底理解し難いものである。それについて人間の想念が霊界にいかに反映するかをかいてみよう。
 霊界は全く想念の世界である以上、無から有を生じ、有が無になり変異極まりないものである。その例としてここに絵画彫刻等によって神仏の本尊が作られるとする。ところがその作者の人格によって、懸り給う神霊仏霊に自ら高下を生ずる。すなわち作者の人格がしからしめるので、最も高い場合はそれに相応する高級神霊が降臨される。ゆえに形は同一であっても、作者の人格が低い場合はそれに相応した代理神霊、または分神霊が懸られるのである。
 今一つは、すべて礼拝の的である御神体に対し、礼拝者が誠をもって心から念願する場合、その神霊の威力、すなわち光明は偉力を発揮するに反し、礼拝者の想念が形式だけで、心からの尊信の念がない場合、神霊の偉力はそれだけ減殺されるのである。また礼拝者が多数あればある程、神威弥々(いよいよ)赫々(かくかく)たる光明を増すのである。
 よく昔から、「鰯の頭も信心から」というが、これはどういう訳かというと、何ら資格もない下根の者が御神体を作り、巧妙なる手段をもって宣伝をすると、一時は相当多数の参拝者が礼拝するとすれば、参拝者の想念によって、霊界に神仏の形が造られるのである。従って、相当の偉力を発揮し、利益も与えらるるので、これは全く人間の想念の作為で、実に不思議というより外はない。しかしこれらはある期間は繁昌するが、それは本物ではない。一時的架空のものであるから、いつかは消滅するのである。こういう例も少なからずある事は誰もが知る通りである。いわゆる、流行神というのはこの種のものである。
 以上は、神霊についてであるが、その反対である悪魔についても解説してみよう。
 世の中に最も多い事、自己欲望のため、人に迷惑を掛け、人を苦しめ、不幸に陥れる悪徳者の余りに多い事である。無論これらは、吾々が常にいうところの見えざるものを信じないという、唯物思想の産物ではあるが、これを霊的にみれば奇々怪々実に恐ろしいのである。
 人を苦しめる以上、その被害者は必ず怨んだり憎んだり、仇を打とうとする、その想念は、霊線を通じて相手にブツかってくる。それを霊的にみると、忿怒(ふんぬ)や怨みの形相物凄く、仮に眼に見えるとしたら、いかなる悪人といえども一たまりもなく往生するのである。ところが被害者が一人や二人どころではなく、何千何万の人数となると、多数の想念が集合し、いよいよ恐ろしい怪奇極まる妖怪が出来、種々の形となってその悪人を取巻き、滅ぼそうとするから堪らない。いかに英雄豪傑といえども、ついには悲惨なる運命の下に滅亡するより外ないのである。これは古今を通じて、歴史上の大人物をみれば例外なく右のごとき運命を辿(たど)っている。
 その他悪徳政治家の悲劇、成金の没落はもちろん、多数の婦女を迷わせ飜弄(ほんろう)した輩や、悪質の高利貸等の末路をみればよく判るのである。
 右に引換え多くの善根を施し、多数者から感謝感激の想念を受くるとすれば、その想念は光となって、その人を囲繞(いじょう)するから、いよいよ有徳者となり、悪霊邪神もその光に恐れて近づき得ない以上、大いなる幸福者となるのである。よく神仏の像などにある円光なども、それを表徴したものである。
 以上によってみても人間の想念は、いかに重要視すべきものであるかが知らるるのである。

(注)
囲繞(いじょう)、囲いめぐらすこと。