―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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浄霊の原理  神示の医学

『光』号外、昭和24(1949)年5月30日発行

第一
 この原理を説くに当って最も困難である事は現代人の教育程度では非常に判り難いと思うからである、というのは現代教育が徹頭徹尾唯物主義によって構成されたものである以上これもまた止むを得ないのである。
 ひるがえって今日各宗教の開祖の事蹟を文献や言伝えによって眺むる時、必ずと言いたい程奇蹟を行っている、大宗教程しかりである、ところがその時代の文化程度ではただ奇蹟を表わし利益を与えるだけで大衆は納得した。その内容や理論は別に求めようとはしなかった、そうしてここに遺憾なのは最も奇蹟を表わしたキリストのごとき、もしあの贖罪が無かったとしたら、生存中にいかに大多数の人類を救い教線を拡充し得たかは今でも想像され得るのである、それがすこぶる短期間で終ったのは、全くその時代サタンの力の方が強かったためで、これは否定出来ない事実であろう、以上のごとくサタンの力が勝れていたという事は霊界の関係で時期尚早であったからである、しかるにいよいよ時は熟し霊界の大転換はめぐり、サタンの力が日に月に弱まりつつあるのは吾らの霊感によって明らかである。
 私は神示によって、今日まで世界の謎とされていたあらゆる事象を感得しこれによって正邪を明らかにし、善悪の根本を究明し、一切の過誤を是正し、今日まで唯物文化のみ進展しつつあった跛行的現実に対し、断然唯心文化をして躍進せしめ両々相共に進歩発展せしめ、地上天国の理想世界を出現せんとするのである、それについて本教信者が驚くべき奇蹟によって大いなる効果を挙げつつあるその原理の一端を解説しようとするのである、さきに述べたごとく、未開人や文化の低劣時代と違い、現代人は具体的に表われた奇蹟だけでは、全面的信頼は湧かない、どうしても理論の裏付けがなくては納得しないのである、既成宗教萎靡(いび)の原因もその宗教が唯物文化を否定するだけで、現当利益を与え得ないからでもある。
 ここで本教信徒が顕わす奇蹟の中の浄霊法の原理を説いてみるが、それは病者に向かって数尺離れたところから手を翳(かざ)し、かすかに振り動かす事によってたちまち難病重患が軽快する、堪え難い苦痛も短時間に軽減または消滅する、どう考えても奇蹟というより外はない、数人の博士が見放した病者が、何ら医術的素養のない入信数ケ月の信徒が、起死回生の効果を挙げる事は枚挙にいとまない程である、現代の唯物的見方では全く理屈に合わない大問題というの外はない。
 現代医学は何百何千年以前から各国の優れた学究が研鑚錬磨し完成されたものであって、その精微にして巧緻なる療法は讃歎に価するものがある、しかも数十年の修練研究は素より何万の学費を費やしてなった現代大家が意のごとくならない病患が、無学の一凡人が浄霊法を行うや顕著な効果を現わすのであるから、全く世紀の驚異であると言っても過言ではあるまい、実に理外の理とはこの事である。これらの実績を聞知(ぶんち)しただけでは容易に受入れないばかりか、反って迷信視したり、精神異常的にみる事さえあるのも、けだしやむを得ないであろう、恐らく歴史はじまって以来の空前の大事件である。
 本教の宣言にある「病貧争絶無の世界」というような大言壮語は、真に確信がなくてはいえるものではない、もしその実力がないとすれば、それは世を欺瞞する事となり許すべからざる罪悪を構成するからである、ところが、前述のごとき奇蹟は実は吾らからいえば奇蹟ではなく、絶対的根拠があり、顕わるべくして現わるという科学的説明の裏付があるのでそれを出来るだけ詳細に書いでみよう。

第二
 いよいよ浄霊の原理を説くが、これについて前提として知らなければならない事があるからまずそれから述べてみよう。
 そもそも万有一切は、物質のみではなく、別に眼に見えないところの霊なるものがある、もちろん、人間といえども霊と体とから成立っており、これを概略分類すれば霊は太陽の精であり、体は月と土の精である、それを判りやすくいえば霊は火であり陽であり、男であり、表であり、経(たて)であり、昼である、それに引換え体は水であり、陰で女で裏で緯(よこ)で夜である、ところが科学においては体のみを対象として、霊の存在を認めない、この点が根本的誤謬である、何となればもし人間が体のみで霊がないとしたら、それは単なる物質である、木石と同様無機質である、生命もなければ精神の活動もあり得ない、こんな単純な理論が判らなかった事が、今日までの科学の根本的誤因であった、ゆえに彼ら科学者の考え方は、この空間は空気のみの存在として他は無としていた、ところが何ぞ知らん、空気以外の諸々の不可視原〔元〕素がどのくらいあるか判らない事実で遣憾ながらその発見にまで科学はいまだ進歩していないのである。
 右のごとき不可視原素の実態を幸いにも私は発見し得たのである、これを私は霊科学と名付けた、この発見を契機として、人類の最大苦である病気が滅消される時代が開始されるに到った事はもちろんである、今日まで全然不明とされていた病患に関するものは一切解明されたのである、したがって今日のごとき医学研究の必要は最早無いと言ってもいいのである。
 次に病気発生の根原を闡明(せんめい)してみるが前述のごとく人間は霊と体の二元的要素から成立している以上、(切れる人間が生きているというその動は、)〔人間が動いて生きているというのは〕霊と体が密合一致し、霊が体を動かしているからである、そうして霊は人体と同様の形状をなし、霊の中心に心があり、心の中心に魂がある、この三者一体の活動が意志想念となって表われ、この見えざる霊すなわち意志想念が肉体の支配者であるから、霊が主で体が従となる、すなわち霊主体従である、これを判りやすくいえば人間が手足を動かす場合、手足が自主的に勝手に動くのではない、意志の命令に従って動くのである、眼も鼻も口も人体全部ことごとくがそうである、病気といえどもこの原理の通りで、判りやすくするため、誰でも経験のある腫物を取上げてみよう。
 腫物は最初小なる隆起が出来、それが漸次腫脹し、膨大し、赤色を呈し、発熱を伴い局部は痛み、痒み等の苦痛があるのが通例である、この現象は体内の毒素が自然生理によって排泄さるべき活動が起り、一局部へ集溜し発熱によってその毒結を溶解液体化し、排泄を容易ならしめる、それが自然良能作用である、また排出口を作るべく、皮膚をより薄く柔軟ならしめる、ゆえに赤きは、透明状となった薄皮を毒血が透して見えるのである、それから間もなく小孔が開きたちまち液体毒血膿は瀉出(しゃしゅつ)し浄化が終るのである。
 右は体の説明であるが、この際霊はいかなる状態であるかというに、腫物そのままの一種の雲状を呈するのである、いわば曇りである、病気の重い程曇りは濃度である、右のごとく曇りが霊の局所に集まるかというと、それが不断の浄化作用であって霊全体の曇りが一個所に集溜し、排泄活動が起る、それが病気である、もちろん体の方とは密接不離な関係である。
 しかるに腫物の場合、医療は穿孔または切開によって毒結膿排除を行うがこれは大なる誤りで多くの場合毒血膿が充分集溜せざる以前に手術を行うため、切開後非常に長い間毒血膿が集溜し、傷口が塞がらない事がよくある、盲腸炎手術後など何年も傷口が塞がらないのは右の理によるのである、ゆえに堪能なる医家は、腫脹が充分熟するのを待って切開するが、これは全治を非常に早めるのである、ところが最初から何らの方法も行わず、腫脹が充分熟して自然に小穴を作り、毒血膿排泄するようにすれば予後は非常に良好にて短期間に治癒する事実は到底手術の比ではない、例えば未熟の手術は一個月を要するものが、熟した手術は十日間で、自然放置は五日間で治癒するのである、しかし困る事は自然熟を待つとすれば排膿までの期間苦痛に堪えないが、一度手術をすれば、一時苦痛を免れるから手術も止むを得ないという事にもなる。
 ところが右の苦痛はいかに激しくとも浄霊療法を行えば、苦痛は全然消失するのみならず、膨大赤色の脹れが毒血膿排泄されるまで、無痛であるのをみて人々は驚歎するのである、この不思議な原理を次に説いてみよう。
 さきに、霊主体従の原理を説いたがこれは独り人体ばかりではない、一切万有ことごとくはこの法則に漏れるものはないのである、従って浄霊の目的はこの霊の曇を解消するのである、これによって霊の曇は虚脱状態となる、つまり霊の生を死に転換するのである、死んだ曇りは力が零となるから、神経を刺激しない事になる、無痛苦となるのはそれがためである、しからば、なお徹底して浄霊が曇を解消するというその原理はいかなるものであるかを説いでみよう。

第三
 前項に述べたごとき霊の曇の本質は一体何であるかというと、これは人体保有の水素中に発生した毒菌である、この毒菌は恐らく数百万倍の顕微鏡でなくては見えない程の極微粒子であってこの微粒子発生の原理は別の項に詳説する事とするが、ここでは右の毒微粒子を死滅させる原理を説くに止めるとして、この死滅法こそ言うまでもなく霊の力である。
 しからば浄霊とは、霊の曇りすなわち毒素を人体放射能の力によっていかにして死滅させ得るかと言うに、その放射能の原〔元〕素は光の本質である火素から発生する光波である、これはちょうど水素中の毒菌とは反対の元素で、一言にして言えば善と悪である、もちろんこの光波は光の極微粒子で、この活力こそすばらしい殺菌力を発揮する、とすればこの光波の本質とは一体何であるか、今それを解説してみるが、この光波の極微粒子こそ、神霊からの放射能であって、本教の浄霊によって奇蹟を表わす現当利益の根原で、これに対し信徒も第三者もただ不思議の感に打たれるだけで、その原理を知りたい意欲は誰もが同様である事は、私もよく知っていた、ゆえにこれまでとても大いに解明したかったのであるが時期尚早のため、今まで発表は出来なかったのである、ところがいよいよ時期切迫最早発表するの止むを得ない時となったのである。
 私は浄霊の方法として現在行っている方法は、光の文字を大書した紙片を与えるのである、それをお守りとして懐(ふところ)へ入れる事によって効果を発揮する、それは光の文字の墨色から強力なる光波が放射し、術者の身体から腕を通して掌から放射される、この放射力は数尺ないし数間くらいが最も適当としている、そうしてこの光の文字から光波が放射されるという事は一体いかな訳かというと、私の体から霊線を通じ個々の光の文字へ一瞬にして伝達するのである、ちょうど放送の無線電波とよく似ている、私の霊体から、霊線を通じて光波が放射するとすれば、一体私の霊にはどういう仕掛けがあるかという事になるが、それを知る事によって疑いは解ける訳である、それは私の腹中に平常は直径二寸くらいの光の玉がある、これは見た人もある、この玉の光の塊から光波は無限に放射されるのである、しからばこの光の玉のその本源はどこにあるかというと、これが霊界における観世音菩薩の如意の玉から、私に向かって無限光を供給されるのである、これがすなわち観音力であり、不可思議力妙智力とも言われるものである、如意輪観音が持し給う玉もこれである。

第四
 ここで、観世音菩薩の由来を書かなければならない、諸仏中ひとり観世音のみは昔から御秘仏とされていた、これは深い神秘があるので、その神秘の全部はいまだ時期なお早く発表は出来ないが、いずれ神の許しのあり次第発表するつもりである、ここでは浄霊に必要だけの神秘を書く事とする。
 もちろん、観世音の御働きは仏教渡来からであるが、その当時から最近まではただ霊のみの御救いであった、もちろん人間が祈願する事によって利益を賜わるには賜わったが、それははなはだ微弱であった、その理由として光の原〔元〕素は火素と水素の密合であるが地素が欠けていた、ゆえに利益を与える場合二元素のみであったから、力が不充分であった訳である、ところが霊界における大転換の時が迫り来った、聖書中の世の終り、最後の審判の時がそれである、これがため最も強力なる絶対的救済力が必要となった、この力こそ前述のごとく火水土の三位一体の力であって、土の力とは物質の原素で、人間の体に当る、光が体を通過する事によって土素が加わり三位一体の力となる、すなわち観音力である、これを判りやすく言えば観世音菩薩の如意の珠から発揮される光素が、私の体を通じて観音力の発現となり、それが私から信徒の体を通じ浄化力となるのである。
 右の理を例をもって解説してみよう、例えてみれば、昔から病難除去の利益を戴くべく、観世音の画像または彫像に向かって祈願するに対し、今日、本教の信徒が行う浄霊の方が何倍かの利益を挙げ得るのである、それは画像や彫像からの光波では二元素のみで、肝腎の体の力が加わらないからである。
 今一つの理由として、常に私の唱える霊界の大転換である、これは昭和六年六月半ばからでそれ以前の霊界は水素が多く火素が少なかった、しかるにそれ以後水素よりも火素の方が漸次増加しつつある一事である、もっともこの時より数十年以前から転換は始まっているにはいたが、それは火素がすこぶる稀薄であった事である、ここで光の強弱について説明するが、光の強いという事は火素が多いからで、電灯の燭(しょく)が多い程熱が強いのと同様である。
 今一つの例は、私の腹中には火素の塊があるから、普通人より非常に熱いとよく言われる、私は毎晩のように奉仕者に肩を揉ませるが、誰もが非常に熱いといい、冬でも一、二枚衣服を脱ぐくらいである、また私が部屋にしばらくいると部屋が熱いとみんなが言う、私は「ストーブの代用になる」と大笑いする事がある、私は入浴後寒中でもタオルの寝衣一枚で、一、二時間そのままでいる、しかも私は特別のぬる湯好きである、これは火に水を注ぐと反って熱度が増すと同様の原理で、冬晴天の日の方が寒いのもこの理によるのである。

(注)
燭(しょく)、この場合、光度の旧単位。一燭はほぼ一カンデラに等しい。1961年(昭和36)に廃止された。