―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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信仰の種類

『地上天国』7号、昭和24(1949)年8月30日発行

 単に信仰といってもいろいろ種類がある。ざっと書いてみるが、(一)お陰信心、(二)景場(けいば)信心、(三)有難信心、(四)利用信心、(五)神憑信心、(六)身欲信心、(七)たがる信心、(八)御無沙汰信心、(九)浮気信心、(十)気紛れ信心、(十一)鰹節信心、(十二)贋信心――等々ある。
 これについて一つ一つ解説してみるが――
(一)お陰信心は
 ただお陰さえ貰えばいい、神様のためとか世の中のためとか、そういう事は第二義的で、自分さえよければよいという利己的信心で、これらは多く中流以上の人に多い。信仰を利用する事は知っても、神に奉仕する事を知らないのである。信仰を利用するという事は人間が上で神が下になる。神を崇め奉仕する事こそ神から恵みを受けるのであるから、このお蔭信心は、反ってお蔭を無くする訳で永続きしないものである。
(二)景場信心は――
 その宗教が世の中に埋っている間ははなはだ不熱心であるが、一度世の中へ知れ渡り。世間から何や彼や言われるようになると、急に思い出したように神様に接近し、働きたがる。
(三)有難信心は――
 これはただ有難い有難いで、客観的には洵(まこと)に立派な信仰者のように見えるが、神様の大目的たる人類救済というような大きな考えはない。極めて小乗的だから、さっぱり働きがないから、枯木も山の賑やかし程度である。
(四)利用信心は――
 その宗教を利用して一儲けしようとしたり、何らかの野心を包蔵しているなかなか狡い考えである。こういう人は利用不可能と知るやサッサと逃げてゆく。
(五)神憑信心は
 やたらに神憑りが好きで、自分はともかく神憑りを扱うのをよいとし、霊界の事を知りたがるのである。これはさほど悪くもないが本筋ではない。なぜなれば心霊研究会のやる仕事で、低級霊の御託宣をとかく信じやすく、外れるような予言を有難がる事があるから、まず邪道である。
(六)身欲信心は――
 欲一方で信心する。世間によくある○○様や○○稲荷等へ月詣りしたり、金銭や供物を上げて御利益目当てで、社会や人間の不幸などはテンデ思った事もないという、まず世間的信仰とでもいう種類のものである。
(七)たがる信心は――
 威張りたがる、貰いたがる、人からよく思われたがる、よく言われたがる、褒められたがるというように、自己愛から放れ切れない洵(まこと)に浅間しい信仰で、これらもまず低級信仰の部類である。
(八)御無沙汰信心は――
 忘れた時分にやってくる。あまり御無沙汰だから、信仰をやめたのかと思うとそうでもない。何を思い出したのか亡霊のようにフラフラやって来る。これらはむしろ信仰をやめた方がよいと思う。
(九)浮気信心は――
 一つの信仰を守れない。種々の信仰をやってみたがる。今日は向うの岸に咲く浮草のような信仰で本当の御利益などは決して戴けない。といって何か信仰がなければ淋しい、迷いが多過ぎる。人からちょっと話を聞くとすぐ気が変る、これはむしろ不幸な人である。
(十)気紛れ信心は――
 はなはだ気紛れで、浮気信心と同様、一つの信仰へ熱中する事は出来ない。次々換える。つまり宗教遍歴者である。この種の人は割合インテリに多い傾向がある。
(十一)鰹節信心――
 神様や信仰をダシにして自分の欲を満そうとする。身欲信心と同じで、宗教団体にはよくある型で、指導者学者等のエラ方に多い。
(十二)贋信心は――
 表面信仰者らしく見せかけて、肚の底は全然神を認めない。そしてこの種の信者に限って非常に口がうまいから、最初は大抵騙される。しかし永くは神様が許さないから、遂に尻尾がバレて逃げだしてしまう。
 右の中、どれにも該当しない信仰でありとすればそれは正しい信仰である。