―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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真の救いとは何ぞや

『光』41号、昭和24(1949)年12月24日発行

 今日批判者の極っていう言葉は本教が宗教でありながら、治病に専念するというのは間違っているというのである、しかしよく考えてみるとこんな訳の判らない話はない、何となれば右のような批判者の考え方は宗教なるものは精神的方面のみの救いで、物質方面は宗教の分野ではないと決めているからであろう、したがって病気治しというごときは、物質方面であるから宗教でないと思うのである、彼らは物質的救いとは宗教を逸脱しているように思い、精神的方面のみが宗教の本質と決めてかかっている、もちろん彼らの思う精神的救いとは一言にして言えば諦めである、苦悩を物質的に救う力はないから、やむを得ずせめて精神上の諦めだけでも苦悩を減らそうとする訳である、これが今日までの宗教に対する多くの人の観念であった事である。
 ところが物質を度外し、精神方面だけの解決では実際上の救いとはならない、というのは物質的解決が可能であることの実証を信ずるからこそ精神的にも真の安心を得られるのである、たとえば腹の減った場合、いずれ誰かが食物を運んでくれるという信頼があってこそ安心が出来るので、誰ももって来ないと判ったら餓死の恐怖に脅えるのは当然である、その他病気にしても、生活苦にしても信仰によって解決出来るという事を認識するから真の安心が得らるるのである、このように物心両面の解決こそ真の安心立命の境地に救い得らるるのである。
 とすれば、物心共救いの根本は病気を解消し健康人たらしめる事以上のものはない、たとえ金銀財宝が山と積まれても山海の美味が食膳に堆(うず)高く積まれても、地位や名誉がいか程与えられても病苦に悩んでいたら、一切は零である、しこうして人類を救う第一条件としては、何よりもまず健康の達成であらねばならない、本教が救いの根本として病なき人間、病なき社会を目標とするのは、右の意味に外ならないのである。