―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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真理の具現

『光』18号、昭和24(1949)年7月16日発行

 そもそも、宗教の真の目的は何であるかといえば、言うまでもなく真理の具現である、しからば真理とは何ぞやという事であるが、真理とはもちろん自然そのままの姿を言うのである。東から太陽が出て、西に沈むという事も人間は生れれば必ず死ぬという事、これは仏説のいわゆる生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり)という事であり、人間は空気を呼吸し食物を食う事によって生を営んでいるという事ももちろん真理である、こんな判り切った事を言わなければならない程、人類社会の現状は出鱈目(でたらめ)になっているからである。
 右の理によって、現在社会万般にわたる混乱、闘争、無秩序、罪悪等の忌わしき事象を見れば、人類が幸福になるよりも、不幸になる事の条件の方が多分にある事は否み得まい、とすれば、その原因が奈辺(なへん)にありやを考えてみなくてはならない、私の見るところでは、一切の根本が真理に遠ざかっているからであって、それがあまりにも明らかである、ただ真理に遠ざかっていながら、それに気がつかないだけである。しかしながら、それは何がためであろうかをここに検討してみるが実は現代人は真理そのものさえも判らなくなっている、その第一は生活問題の窮迫に頭脳は真理を考える余裕など無くなっているからでもあろう。もっとも、肝腎な宗教でさえ、今日まで真理そのものがはっきりしなかった、説こうとしてもともすれば非真理に陥ってしまう事が多かったのである、もし真理を真に説き得たとしたら、人類社会は現在のごとき深刻な苦悩の様相は呈しなかったであろう、むしろ天国楽土がある程度実現していたかも知れないと思う、しかるに天の時来ってここに神の大愛の発現となり私を通して真理を説くのみか如実に真理の具現を遂行さるる事になったのである、ゆえに私が説くところの諸々の言説は、真理そのものを万人に最も解りやすく宣示する以上、読む人は何物にも捉わるる事なく虚心坦懐(きょしんたんかい)熟読玩味(じゅくどくがんみ)すれば髣髴(ほうふつ)として真理は浮ぶであろう。ゆえに私はここに真理を最も簡単に説諭してみよう。
 最も手近な所から説いてみるが、人間が病気をするという事は、真理に外れた点があるからであり、それを治し得ない医学はこれまた真理に外れているからである、政治が悪い、思想が悪いという事も、犯罪が殖える、金詰り、インフレ、デフレで苦しむという事も、真理に外れているからである、もし真理に外れていないとすれば、正しい事は人間の希望通りにゆくはずで、そのように人間社会を神が造られているのである、その結果理想的善美な社会が生れ、人間が歓喜幸福の生活者となり得るのである、これすなわち私が唱える地上天国の実相である。
 このような訳であるから、私の言説には随分異(ちが)った点があると思うであろうが、実はいささかも異ってはいない、至極当りまえの事である。異ったと思うのは、非真理の眼で見るからである、私の説が異説と思えば思う程社会の現実が異説的なためである、ゆえに私の説を異説と思えず肯定する人こそ、真理を体得した人と言えよう。
 神は人間に対し無限の自由を与えている、これが真理である、人間以外の動植物には自由は与えられていない、ここに人間の尊さがある。しからば人間の自由とは何であるかというと、人間向上すれば神となり、堕落すれば獣となるという両極端のその中間の位置に存在しているのが人間である、この理を推進する時こういう事になる、それは人間のやり方次第でこの世はいとも楽しい天国世界ともなり、その反対であればいとも惨憺(さんたん)たる地獄世界となる、これが真理である、とすれば人間は右のいずれを選ぶべきか、考えるまでもなく先天性の悪魔でない限り、前者を欲するのは当然であろう。
 右のごとくでありとすれば、前者の天国世界の実現こそ人類究極の目的であり、その目的達成のためにこそ真理の具現あるのみである、そうしてそれが宗教本来の使命である以上、私は常に筆に口に真理を教え、なおかつ真理の実行者として日もこれ足らず努力活動しつつあるのである。