―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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宗教なるが故に

『栄光』104号、昭和26(1951)年5月16日発行

 私は、いつも不思議に思っている事だが、私が創成した病療法によれば、どんな病気でも実によく治る。自分としてははなはだ言い難い話だが、恐らく人類史 上かつてない素晴しい医術であろう。何となればこの医術によって、医師が匙(さじ)を抛(な)げた病人も助かり、一生涯無病息災の人間となる事も出来、百 歳以上の長寿を保つ事も、あえて不可能ではないからである。また今最も恐れられている結核なども、薬を余り沢山身体へ入れない内なら、十人が十人全治させ る事が出来るのであるから、結核菌など、いささかも恐れる必要はない。なぜなれば、よしんば感染しても、雑作なく治るからである。また各種の伝染病など も、健康上必要な浄化作用という事を知るから、むしろ喜ぶくらいである。赤痢も、疫痢も、チフスも、脳炎も、ジフテリヤも、天然痘も、麻疹(はしか)も、 何ら手当を加えない内なら数日間で、必ず全治するのである。
 特に言いたい事は、感冒を歓迎するというと現代人は驚くであろうが、吾々からいえば、感冒は体内の清浄作用だから罹る程浄血者となり、健康が増すからで ある。従って、近来結核始め、種々の病気の多いという事も、その主なる原因は感冒を恐れ、感冒に罹らないようにするのが原因である。だから我療法を知った なら、病気は浄化作用であるから結構という事も判り、必ず治るに決っているという事も判るのである。もちろん黴菌なども問題ではなくなる。ヤレ消毒、ヤレ 含嗽(うがい)、手を洗えなどという面倒臭い事は、一切必要がないから、生活は実に気安くなる。このように大なる幸福と安心感は、到底筆舌では表わせな い。ところがこのような有難い話をしても、病気に対しビクビクしている現代人には想像すらつかず、全く別世界の話を聞くような感がするであろう。
 しかも、これ程の驚異的新療法を聞いても見ても、現代人特に智識人などには、ほとんど通じないらしい。素通りして頭の中に止まらないのであろう。吾らから見れば実に解するに苦しむが、つまり宗教なるがゆえと思うより考えようがないのである。
 ところが、犬の心臓を人間に移植が出来たとか、死人の眼玉をクリ抜いて、その網膜を生きた人間に移植すると、盲者が見えるようになったとか、ヤレこうい う新薬を発見したとか、こういう療法が成功したとか言って、時々新聞にデカデカと発表するが、吾々から言えば、まるで子供が何か出来だといって喜んでいる ようなものとしか思われない。こういう事をいうと、自観という奴、また例の脱線的大言壮語と思うかも知れないどころか、反って逆に吾々の頭脳を疑うかも知 れないが、それ程彼らの頭脳は、既成文化の虜(とりこ)となり、化石となり切っているのであろう。何よりも吾々の言いたいのは、果して脱線か、気狂か、法 螺(ほら)かを充分検討して貰いたいのである。否、そういう意欲が彼らに起らなければならないと思うが、今日までそういう事はない。もちろん吾らの方はい つでも、心から納得のゆくまで実証を、いくらでもお目にかけるつもりである。ところが彼らはいつまでも沈黙してそういう態度に出ないのは、全く宗教なるが ゆえであろう。
 今一つ言いたい事は、我新医術の論文中から、一項目を抜いただけでも、ノーベル賞くらいの価値は、充分ありと信ずるし、またもし、全部の理論と実証とを 知ったなら、ノーベル賞どころか審査員は驚嘆して、判定を下す事は不可能であろう。何となれば、暗夜(やみよ)に電灯を有難がっていた人達に、夜が明けて 太陽の光りに合うようなものだからである。従って、これほどの大発見としたら、人類破滅の力をもつ原子爆弾とは反対に、人類甦生(そせい)の力をもつ原子 爆弾といっても過言ではなかろう。しかしながら恐らくこの文をみても、まだ仲々心を動かすまい、相変らず智識人の大部分は眼を外(そら)し、関心を持たな いであろう。言うまでもなく宗教なるがゆえである。
 噫々(ああ)、余りに偉大な発見であるがため反って、啓蒙の至難なる事を痛感するのである。