―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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宗教不感症

『救世』57号、昭和25(1950)年4月8日発行

 普通常識からいえば、世のために尽くすとか、人を幸福にするという事は善い事に違いないから、賛意を表し援助をしたくなるのが真の人間性である、ところが不可解にもはなはだ冷淡に振舞う人をよく見受けるが、そういう人は案外多いようである、彼らの偽らざる心情は、世のためとか人の事などはどうでもよい、そんな事は骨折損の草臥(くたび)れ儲けにすぎない、すべては自分だ、自分に利益がある事だけすればいい、それが一番利巧だ、そうしなければ金を儲けたり出世したりする事は不可能だと思っているらしい、実はこういう人の方が反って利巧に見えるものであるから、世の中は可笑(おか)しなものである。
 従って、この種の人は自分がどんな苦しみに遭っても唯物的打算的に考える、すなわち病気は医者にかかればいい、面倒臭い事は法律の力を借りればいい、言う事を聞かない奴は叱言(こごと)を言うか痛い目に遇わせてやればそれでいいとはなはだ簡単に片付けてしまう、また吾さえよければ人はどうでもいいとする主義だから、自分だけが贅沢に耽(ふけ)り、他を顧みようとしないため全然徳望などはない、集る輩は利益本位のみであるから、一朝落目になるとみんな離れてしまう、もちろんこういう人に限って年中問題や苦情の絶えた事がない、ついには何事も巧くゆかなくなり、失敗するとそれを我(が)で挽回しようとして焦り、無理に無理を重ねるのでいよいよ苦境に陥り、再び起つ能(あた)わざるに到るもので、こういう例は世間あまりに多く見受けるのである、もちろん信仰の話などには決して耳を傾けない、眼に見えない神や仏などあって堪るものか、それらはみんな迷信である、神仏は人間の腹の中にあるんだ、俺だって神様なんだよと誇らしげに言うのみか、そんな事に金や時間を使うのは馬鹿の骨頂である、信仰などは弱虫の気休めか閑人の時間ふさげに過ぎないとしてテンデ相手にならないのである。
 こういう人を称して、吾らは信仰不感症と言うのである。