―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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天国と地獄

自観叢書第3編『霊界叢談』P.20、昭和24(1949)年8月25日発行

 天国はさきに述べたごとく上位の三段階になっており、第一天国、第二天国、第三天国がそれである。第一天国は最高の神々が在(おわ)しまし、世界経綸のため絶えず経綸され給うのである。第二天国は第一天国における神々の補佐として、それぞれの役目を分担され給い、第三天国に至っては多数の神々が与えられたる任務を遂行すべく活動を続けつつあるが、もちろん全世界あらゆる方面にわたっての活動であるからその行動は千差万別である。第三天国の神々は中有界から向上し神格を得たのであるから人間に最も近似しており、エンゼル(天使)ともいわるるのである。
 右は神界構成の概略であって、神界は今日まで約三千年間、仏教の存在する期間ははなはだ微々たる存在であった。何となれば神々はほとんど仏と化現され、そうでないのはほとんど龍神となって時を侍っておられたのである。また神々は仏界を背景として救いの業に励(いそ)しみ給うたのでその期間が夜の時代であって昼の時代に転換すると同時に神界は復活するという訳である。
 次に、極楽浄土は仏語であって仏界の中に形成されているが、極楽における最高は神界における第二天国に相応し、仏説による都〔兜〕率天がそれである。そこに紫微宮(しびきゅう)があり、七堂伽藍(しちどうがらん)があり、多宝塔が整え立ち、百花爛漫として咲き乱れ、馥郁(ふくいく)たる香気漂い、迦陵頻伽(かりょうびんが)は空に舞い、その中に大きな池があって二六時中蓮の葉がうかんでおり、緑毛の亀は遊嬉(ゆうき)し、その大きさは人間が二人乗れる位で、それに乗った霊の意欲のまま、自動的にどこへでも行けるのであって、何ともいえぬたのしさだという事である。また大伽藍があってその中に多数の仏教信者がおり、もちろん皆剃髪で常に詩歌管絃、舞踊、絵画、彫刻、書道、碁、将棋、等現界におけると同様の娯楽に耽っており、時折説教があってこれが何よりのたのしみという事である。その説教者は各宗の開祖、例えば法然、親鸞、蓮如、伝教、空海、道元、達磨、日蓮等である。そうして右高僧等は時々紫微宮に上り、釈尊に面会され深遠なる教法を受け種々の指示を与えらるるのである。紫微宮のある所は光明眩(まばゆ)く、極楽浄土に救われた霊といえども仰ぎ見るに堪えないそうである。
 極楽の下に浄土があって、そこは阿弥陀如来が主宰されているが、常に釈迦如来と親しく交流し、仏界の経綸について語り合うのである。また観世音菩薩は紫微宮に大光明如来となって主座を占められ、地上天国建設のため釈迦阿弥陀の両如来補佐の下に、現在非常な活動をされ給いつつあるのである。しかしながら救世の必要上最近まで菩薩に降り、阿弥陀如来に首座を譲り給うたのである。
 そうして近き将来、仏界の消滅と共に新しく形成さるる神界準備のため、各如来、菩薩、諸天、尊者、大士、上人、龍神、白狐、天狗等々漸次神格に上らせ給いつつ活動を続け、すこぶる多忙を極められつつあるのが現状である。
 次は地獄界であるが、これは天国とはおよそ反対で光と熱がなく下位に往く程暗黒無明の度を増すのである。地獄は昔から言われるごとく種々雑多な苦悩の世界で、私はその概略を解説してみよう。
 まずおもなる種類を挙げれば針の山、血の池地獄、餓鬼道、畜生道、修羅道、色欲道、焦熱地獄、蛇地獄、蟻地獄、蜂室地獄等々である。
 針の山は読んで字のごとく無数の針が林立している山を越えるので、その痛苦は非常なものである。この罪は生前大きな土地や山林を独占し、他人に利用させないためである。
 血の池地獄は流産や難産等出産に関する原因によって死んだ霊で、この種の霊を数多く私は救ったが、それはすこぶる簡単で祝詞を三回奉誦し、幽世の大神様に御願する事によって即時血の池から脱出し救われるので、大いに喜ぶのである。血の池地獄の状態を霊に聞いてみるとこうである。その名のごとく広々とした血の池に首の付根まで何年も漬っている。その池の水面ではない血の面に無数の蛆が浮いており、その蛆が絶えず顔面に這上ってくる。払っても祓っても這上ってくるので、その苦しみは我慢が出来ないという事である。この原因は生前無信仰者にして、その心と行に悪の方が多かったためである。
 餓鬼道はその名のごとく飢餓状態で、常に食欲を満そうと焦燥している。それ故露店や店先に並んでいる食物の霊を食おうとするが、これは盗み食いになり、一種の罪を犯す事になるので止むなく人間に憑依したり、犬猫等に憑依し食欲を満そうとする。よく病人で驚く程食欲の旺盛なのがあるが、これは右に述べたごとき餓鬼の霊が憑依したのである。また犬猫に憑依した霊は漸次畜生道に堕ちる。その場合人間の霊の方が段々融け込んでゆく。ちょうど良貨が悪貨に駆逐されるように、ついに畜生の霊と同化してしまうのである。この意味において昔から川施餓鬼などを行うがこれは水死霊を供養するためで、水死霊は無縁が多いから供養者がなく、餓鬼道へ堕ちるので、餓鬼霊に食物を与え有難い経文を聞かせるので大きな供養となるのである。
 餓鬼道に堕ちる原因は自己のみが贅沢をし他の者の飢餓など顧慮しなかった罪や、食物を粗末にした等が原因であるから、人間は一粒の米といえども決して粗末にしてはならないのである。米という字は八十八とかくが、これは八十八回手数がかかるという意味で、それを考えれば決して粗末には出来ないのである。私も食後茶を呑む時茶碗の底に一粒も残さないように心掛けている。彼のキリスト教徒が食事の際合掌黙礼するが、これは実によい習慣である。もちろん食物に感謝の意味で、人間は食物の恩恵を忘れてはならないのである。
 畜生道はもちろん人霊が畜生になるので、それはいかなる訳がというと生前その想念や行為が人間放れがし、畜生と同様の行為をするからである。例えば人を騙す職業すなわち醜業婦のごときは狐となり、妾のごとき怠惰にして美衣美食に耽り男子に媚び、安易の生活を送るから猫となり、人の秘密を嗅ぎ出し悪事の材料にする強請(ゆすり)のごときものや、戦争に関するスパイ行為等、自己の利欲のため他人の秘密を嗅ぎ出す人間は犬になるのである。しかし探偵のごとき世のために悪を防止する職業の者は別である。そうして世の中には吝嗇一点張りで金を蓄める事のみ専念する人があるが、これは鼠になるのである。活動を厭い常にブラブラ遊んでいる生活苦のない人などは牛や豚になるので、昔から子供が食後直ちに寝ると牛になると親がたしなめるが、これは一理ある。また気性が荒く乱暴者で人に恐れられる、ヤクザ、ゴロツキ等の輩は虎や狼になる。ただ温和(おとな)しいだけで役に立たない者は兎となり、執着の強い者は蛇となり、自己のためのみに汗して働く者は馬となり、青年であって活気がなく老人のごとく碌な活動もしない者は羊となり、奸智に長けた狡猾な奴は猿となり、情事を好み女でさえあれば矢鱈(やたら)に手を付けたがる奴は鶏となり、向う見ずの猪突主義で反省のない者は猪となり、また横着で途呆けたがり人をくったような奴は狸や狢(むじな)となるのである。
 しかし以上のごとく一旦畜生道に堕ちても、修行の結果再生するのである。人間が畜生道に堕ち再び人間に生まれまた畜生道に堕ちるというように繰返しつつある事を仏教では輪廻転生というがそれについて心得なければならない事がある。例えば牛馬などが人間からみると非常な虐待を受けつつ働いているが、この苦行によって罪穢が払拭され、再生の喜びを得るのである。今一つおもしろい事は牛馬は虐待される事に一種の快感を催すので、特に鞭で打たれたがるのである。右のごとく人間と同様の眼で畜生を見るという事は実は的外れの事が多いのである。その他盗賊の防止をする番犬、鼠をとる猫、肉や乳や卵を提供する牛や羊、豚、鶏等も人間に対し重要な役目を果すのであるからそれによって罪穢は消滅するのである。
 またおもしろい事には男女間の恋愛であるが、これは鳥獣の霊に大関係のある事で、普通純真な恋愛は鳥霊がすこぶる多く鶯や目白等の小鳥の類から烏、鷺、家鴨(あひる)、孔雀等に至るまであらゆる種類を網羅している。恋愛の場合、この鳥同志が恋愛に陥るのであるから、人間は鳥同志の恋愛の機関として利用されるに過ぎない訳であるから、この場合人間様も少々器量が下る訳である。また狐霊同志の恋愛もすこぶる多いがこれは多くは邪恋である。狸もあるがこれは恋愛より肉欲が主であって世にいう色魔などはこの類である。また龍神の再生である龍女は精神的恋愛は好むが肉の方は淡泊で、むしろ嫌忌する位で、不感症の多くはそれである。従って結婚を嫌い結婚の話に耳を傾けなかったり縁談が纏(まと)まろうとすると一方が病気になったり、または死に到る事さえあるが、これらは龍女の再生または龍神の憑依せるためである。よく世間何々女史といい、独身を通しつつ社会的名声を博す女傑型は龍女が多く、稀には天狗の霊もある。
 以上のごとく霊界の構成や霊界生活、各種の霊について大体述べたつもりであるが、以下私の経験談をかいてみよう。


(注)
迦陵頻伽(かりょうびんが)、梵語kalavinka。極楽にいるという想像上の鳥。その声は仏の声のような妙なる泣き声を持つとされる。