―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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天狗界

自観叢書第3編『霊界叢談』P.62、昭和24(1949)年8月25日発行

 霊界における特殊存在として天狗界と龍神界とがあるからかいてみよう。
 まず天狗界とは、各地の山嶽地帯の霊界にあって、天狗なるものはそれぞれ山の守護としての役を掌(つかさど)っている。天狗界にも上中下の階級があり、主宰神としては鞍馬山に鎮座まします猿田彦命である。
 天狗には人天及び鳥天の二種があり、人天とは人間の霊であって、現世における学者、文士、弁護士、教育家、神官、僧侶、昔は武士、等で、死後天狗界に入るのである。また鳥天とは鳥の霊で、鳥は死後ことごく天狗界に入り、人天の命に従って活動するのである。
 鳥天の中、鷲や鷹のような猛鳥は、天狗界においても非常な偉力を発揮している。以前私は小田原の道了権現の本尊がある婦人に憑依したのを審神(しんしん)した事があったが、それは何千年前の巨大な鷲であって、鷲の語る所によると「昔は大いに活躍したが、近年扁翼(へんよく)を傷め、思うように活動出来ぬ。」と歎声を漏らしていた。
 烏天狗はもちろん烏の霊で、天狗界では主に神的行事を行い、特に神聖なる階級とされている。また木ッ葉天狗といわれるものは小鳥の霊で通信、伝令や使者の役目をしている。
 昔から天狗は鼻高と唱え、絵画や面など非常に鼻を高く表わしているが、これは事実である。また赤い顔になっているが、天狗は酒が好きだからである。
 次に天狗の生活であるが、彼等が最も好む行事としては議論を闘わす事で、それは論戦に勝てば地位が向上するからである。従って現世において代議士、弁護士等の業務に携わるものは天狗の再生または天狗の憑霊者である。議論の次に好むものは碁将棋で、私は天狗から天狗界の将棋を教わった事があるが、現界のそれとはよほど異(ちが)っている。また書画、詩文等も好むが、何といっても飲酒は彼等にとって無上の楽しみである。天狗界の言葉は、現界の言語とは余程異りサシスセソの音が主で、その長短抑揚の変化によって意志を交換するのである。天狗の語る所を見ると口唇を最も動かし、舌端を尖らせ、音声をほとんど出さず、上下の口唇の盛んに活動させて意志を交換するので見ていると面白いものである。
 また天狗の空中飛翔は独特のもので、よく子供等を拉(らつ)し、空中飛翔によって遠方へ連れ行く事がある。彼の平田篤胤の名著「寅吉物語」中の寅吉の空中飛翔は奇抜極まるもので、また秋葉神社の三尺坊天狗の事跡もおもしろい記録である。天狗は人に憑依する事を好み、人を驚かす事を得意とする。彼の牛若丸が五条の橋上で弁慶を翻弄したり、義経となってから壇の浦合戦の時、船から船へ飛鳥のごとく乗り移ったという事跡なども全く天狗の憑依したもので、彼が鞍馬山において修行の際、猿田彦命より優秀なる天狗を守護神として与えられたものであろう。その他武芸者などが山嶽に籠り修行の結果天狗飛切の術などを得たり、宮本武蔵の転身の早業などはいずれも天狗の憑依によるのである。
 次に修験者などが山へ籠り、断食、水行等の荒行をなし、神通力または治病力など種々の霊力を得るという話がよくあるが、それらも天狗が憑依するのである。こういう天狗は一種の野心を持ち、その人間を傀儡(かいらい)として現世において名誉または物質を得て、大いに時めく事を望むのであるが、これらは正しい意味の神憑りではないから、一時は相当の通力を表わし社会に喧伝(けんでん)せらるる事もあるが、時を経るに従い通力が鈍り、元の木阿弥となるものである。そうして人間が断食や病気等によって心身共に衰弱する場合霊は憑りやすくなるものである。
 また目に一丁字ない者が突如として神憑りとなり、詩文や書など達筆に書くという例なども天狗の憑依である。
 天狗の霊について私の体験をかいてみよう。以前私は武州の三峰山に登った事がある。その夜山頂の寺院に一泊したが、翌朝祝詞奏上の際私に憑った霊があるので訊いてみると、二百年位前天狗界に入った霊で、駿河国三保神社の神官であったそうである。なぜ私に憑依したかと訊くと、その頃私が愛読していたある宗教のお筆先を読んでもらいたいと言うのである。そこで私は出来るだけ読んでやったが、約半年位いて彼は厚く礼を叙(の)べ帰山したのであった。天狗の性格は、理屈っぽく慢心をしたがり、下座が嫌いで、人の上に立つ事を好み、言い出した事は飽くまで通したがり、人の話を聞くより自分の話を聞かせたがるものである。また鳥天の憑依者は鳥の特色を表わしており、口が尖り声は鳥のごとき単調音で、性質は柔軟で争を好まないから人に好かれる。また空中飛翔の夢を見る人がよくあるが。これは鳥天の憑依者である。