―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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陶器・日本美術とその将来(4)

自観叢書第5編『自観隨談』P.68、昭和24(1949)年8月30日発行

 陶器についてもかいてみるが、元来陶器も絵画と同様支那から学んだものであるから、最初の日本陶器はほとんど支那の模倣であった。古い所では黄瀬戸、青織部、青磁、染付、有田、平戸等で、美術的陶器としては彼の柿右衛門が始めたもので、次いで稀世の陶工仁清(にんせい)が京都に表われ、更に九谷焼が生まれ、一方京都では粟田、清水等の色絵も出来、仁清風が伝わって伊勢の万古赤絵となり、次いで薩摩焼の錦手等が制作される事になった。
 また室町時代およそ四百年前、尾張、瀬戸に生れたのが古瀬戸といい、古くは千二百年前奈良朝頃から自然灰を上釉とした青磁風の陶器が出来、日本青磁も江戸中期から出来たが到底支那青磁に比すべくもない。
 柿右衛門は慶長頃の名工で、近世色絵、錦手等の新機軸を出したのでその功績は斯界(しかい)の大恩人であろう。その後元禄時代六代柿右衛門は、渋右衛門の優〔釉〕によって優秀な製品を出し有名となった。
 特に私の好きなのは肥前の大河内焼で一名鍋島焼といい、享保年代初めて作られたもので、皿類が多く、その意匠の抜群なる色絵染付の技術とあいまって垂涎措く能わざるものがある。次に俗に伊万里焼という錦手ものも捨て難いところがある。また薩摩焼の巧緻にして、絢爛(けんらん)たる色絵も可なるものがある。しかし以上の三者共、近代のものは意匠、技術共見るべきものなく何といっても二百年以前の物に限るといってもいい。
 ただ百五十年前に生れた錦手風の九谷焼は見るべきものがある。特に吉田屋の青九谷や色絵物に優秀なるものがある。
 私は最後に語るべきものに彼の京焼の祖である、名人仁清がある。彼は仁和寺村の清兵衛〔清右衛門〕が本名で陶工としてはまず日本における第一人者といってもいい、彼の作品に至ってはその多種多様なる形状模様の行くとして可ならざるなき作風は天稟(てんびん)であろう。しかもその高雅典麗にして他の陶器をきり離している。特に抹茶碗、壺等には国宝級のものも相当あり、画界における光琳ともいえよう。彼の偉なる点は日本陶器はほとんど支那を範としたに拘らず、彼のみはいささかもそれがなく、日本独特のものを作っている。もっとも彼の鍋島焼も同様日本独特のもので、この点二者同様の線に添うており、支那以上のものも多く出している。また乾山も稚拙な点もあるが、趣味横溢したものもある。光琳の弟であるため、光琳との合作もある。
 また備前焼にもなかなか良いものがある。おもに花生、置物等で、古備前、青備前等優品が多く、推奨に足るものがある。また祥瑞(しょんずい)も私の好きなものである。その他京焼物の種類も多いが、名だたるものとしては初代木米(もくべい)くらいであろう。
 陶器を語るに当っては茶器も語らなければなるまい。茶器としてはまず茶碗であろう。特に朝鮮ものが最も珍重される。最高のものとしては井戸であろう。井戸の中(うち)喜左衛門、加賀、本阿弥等は有名である。これらは今日といえども価格数百金というのであるから驚くべきである。次いで魚屋(ととや)、柿の蔕(へた)、粉引(こひき)、蕎麦(そば)等は朝鮮物として珍重されている。純日本物としては古瀬戸、志野、唐津、長次郎、のんこう、光悦、仁清、織部、萩、信楽、伊賀等であろう。特に長次郎は楽の元祖で、利休の寵を受けた名工で、今日まで十三代続いている。
 次に新しい所を少し書いてみるが、明治以後今日まで特筆すべき名人はいまだ出ないようだ。おもなる名工として初代宮川香山、清水六兵衛、板谷波山、富本憲吉くらいであろう。
 支那の陶器としてはまず青磁で、青磁にも砧、天龍寺、七官(しちかん)の三種ある。その他交趾(こうち)、万暦赤絵、呉須等がある。朝鮮物は白高麗くらいであろう。

(注)
 祥瑞(しょんずい)、中国の明代末に景徳鎮窯で焼かれた一群の磁器を指す名称。細い線で緻密に描き込まれた地紋と捻文や丸紋など幾何学模様の多用が特徴である。その様式は茶人に好まれ、京焼においても祥瑞手として模倣されました。
 交趾(こうち)、現在は磁器にも同じ手法で作られた物もあるが三彩の一種の軟質陶器。インドシナつまりインドとシナの中間を指し、昔交趾支那(こうちしな)と呼んだ。現在のベトナム近辺である。貿易船でそちらから来る形態陶器を交趾と称した。形成後、文様を堆線(区切りを付ける)で区切り、釉薬が混ざらないように配色する。緑、紫、青、黄、茶等の色がある。初期香合に優品が多く異国情緒もあって珍重された。