―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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嘘吐き迷信

『栄光』120号、昭和26(1951)年9月5日発行

 迷信にも色々あるが、ちょっと人の気の付かない迷信に、この嘘吐き迷信がある。つまり嘘を吐いても、巧くゆく事と思う迷信で、現代の人間は実によく嘘を吐く、大抵の人は最早馴れっこになってしまって、知らず識らず嘘を吐いても平気である。つまり嘘が身に付いてしまって全然気が付かないのであろう。部下などがそういう時、私はいつも注意を与えるが、御当人は仲々分らないで、嘘と本当との区別さえつかない者が多い。そこでよく説明してやると、どうやら嘘である事が判って、謝るという訳である。このように嘘と本当との限界が分り難い程、今の人間は嘘が当り前になっている。しかしこれらは小さい嘘で論ずるに足りないが、それどころではなく、意識的、計画的に見逃せない嘘を吐く者が多いので、今それをかいてみよう。
 まず大にしては政治家の嘘である。余り自信がないのに、こういう政策を行うとか、こういう計画を立てるとかいって、堂々宣言して置きながら、空手形に終り、責任を問われる事がよくある。そうかと思うと議員が選挙人に対する約束の不実行もよくあるが、これなども当然のように心得ている。また教育家なども口では立派な事を言いながら、その行為が全然反対の人も多いし、また新聞記事に嘘の多い事も常識のようになっている。もちろん誇大広告などもそうである。ところが一番厄介な問題は今日の税金であるが、これなども取る方と取られる方とは、嘘の吐き比べで、ややっこしい不快な事おびただしい。これもよく知られている事だが昔から花柳界の女等は、子供の時から嘘を勉強して、卒業すればそれで一人前になるという事である。その他お医者さんはお医者さんで、治らないと知りながら、治るといったりするが、これらも嘘を吐かないと飯が食えないからであろう。ところが嘘も方便と言って、坊さんが嘘を吐く事もよくあるが、これらもどうかと思うのである。また昔から商売の掛引などと言って、商人の嘘も大変なものだが、これは天下御免の嘘となっている。マアーザットかいてもこのくらいであるから、全く世の中は嘘で固まっているといってもいいくらいである。特に日本人の嘘の多い事は世界的とされているのだが、余り名誉ではあるまい。しかし単に嘘と言っても大した害のないものと、悪質な嘘とがある。悪質な嘘の中でも、こういうのは困りものだ。それは罪を裁く役人の嘘である。最近新聞を賑わした三鷹事件のごとき、多数の死刑囚が一人を残してことごとく無罪となった事や、二人で殺人罪になった無期徒刑囚が、三年経った今日、別に自分から名乗り出た真犯人が現われたり、大阪の大造事件で、懲役五年の検事の求刑を受けた二人の者が、無罪になったりする事など近頃よくある話だが、これなどは全く検事の嘘による被害者である。
 こういう事を聞くと、検事ともいわれる人が、そんなに嘘を吐くはずがないと思うであろうが、私の経験によっても決してない事はない、というのは昨年の事件当時から、現在の公判に到るまで、嘘によって罪を作ろうとするその熱心は大変なものである。その度毎に私はつくづく思う事はこうまでして罪なき人民に、罪を被せるべく努力するのは、何のためであるかという疑問である。実に不可解千万で、理屈のつけようがないのである。また検察官という職責からいっても、悪人を罪にするのは至当であるが、善人を罪にするなどは到底信じられない話であるが、事実は事実であるからどうしようもないので、ただ世間に余り知られていないだけの話である。なるほど最初から有罪か無罪の判別は仲々難かしいであろうが、少し調べてみれば兇悪犯罪でない限り白か黒かは大体判るはずである。何となれば一生懸命罪を作ろうとする行為そのものが、既に罪のない事をよく証明しているからである。
 話は横道へ外(そ)れたが、つまり嘘を吐きたがるというその本心は、全く嘘をついても知れずに済むと思うからで、実は甘いものである。なるほど世の中に神様がないとしたら、それに違いないから、巧く嘘を吐く程悧口(りこう)という事になるが、事実は大違いだ。何となれば神様は厳然と御座るのだから、どんなに巧く瞞(だま)しても、それは一時的で必ず暴露するに決っている。だから暴(ば)れたが最後恥を掻き、信用を失い、制裁を受け、およそ始めの目的とは逆になるから、差引大損する事となるに違いない。ただ神様が目に見えないから無いと思うだけで、ちょうど野蛮人が空気は見えないから、無いと思うと同様で、この点野蛮人のレベルと等しい訳である。何と情ない文化人ではなかろうか、従ってこの理を知ったら、何程立派な働きをもっていても駄目であるのは当り前で、特に人の善悪を裁くなどという神聖な職責にある人達としたら、大いにその点に留意しなければならないのである。だからそういう人こそ、人を裁きながら、ついには御自分が神様に裁かれる事になるのである。このような判り切った事が信じられないとしたら、全く嘘吐きの迷信に嵌まり込んでいるからで、従って吾らの大いに望むところは、人を裁く司法官ことごとくは正しい宗教の信者になり、神の実在を知る事であって、何よりもアメリカの裁判官が人情味があり、比較的裁判が公平であるという事は、全く同国人に基督(キリスト)者が多いためであるのは、一点の疑い得ない事実である。