―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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犯罪をなくすには

『栄光』114号、昭和26(1951)年7月25日発行

 近来多い犯罪の中で、最も悪質なのは、僅かな金を奪(と)りたいため、人の命をとるのを犬一匹殺すよりも、簡単に考えているかのようで、こういう人間をみる時、常識では到底考えられない程の無鉄砲さに唖然とする。普通から言えば、何たる怖ろしい世の中ではないか、しかも殺される本人もそうだが、遺族の者の歎きはどんなだろうなどとは、全然考えないと共に、もしか捕まったら死刑はもちろん、よくいっても無期は免れ得まいとの予感は、必ず起らなければならないはずだが、どちらにしても若い身空(みそら)で、娑婆(しゃば)の風にも当れなくなり一生を棒に振るようになる。という考えが浮びそうなものだが、そうでないらしい。という心理こそ実に不可解である。全く彼らの行為は本能の赴くまま、刹那(せつな)主義的一時の享楽を欲する以外の何物でもあるまい。僅かな時間の享楽が目的で、その何十倍、何百倍の高価な代償を払うとしたら、どう考えても人間とは思えない、動物そのままだ。御承知の通り動物という奴は、犯罪後殺されるなどとは、無論意識もしないのだから厄介だ。
 こうみてくると、理屈のつけようがないと思うだろうが、実はこれには理由がある。というのは霊的にみると実によく判る。本教の教えにもあるごとく、人間には三つの守護神が着いている。すなわち神から与えられた本守護神、祖霊から選ばれた正守護神、体欲専門の副守護神である。もちろん本守護神は良心の源であり、善を勧めるのが正守護神である。そこで副守護神が霊を占領すると、動物が支配する事になるから、形は人間であっても獣と同様になる。従って、獣である以上、慈悲や情などありようはずもなく、徹頭徹尾残虐性を発揮するのである、というのが兇悪犯罪の根本原因であるから、どうしても人間は、獣に支配されない魂にならなくては実に危険である。何かの衝動にかられるやたちまち邪欲が起って、犯罪者となる。ではどうすればいいかと言うと、これこそ宗教の力による外はない。しからばなぜ宗教によらなければならないかというと、前述のごとく人間が、獣すなわち副守護神に支配されるからである。としたらつまりその副守の支配力を弱らさせる事である。判り易くいえば悪よりも善の力を強くする。つまり副守の方が被支配者になる事である。それ以外絶対解決の方法はあり得ない事を断言する。
 まず何よりも信仰に入り、神に向い拝み祈れば、神と人間とが霊線によって繋がれる以上、霊線を通じて神の光は魂に注入され、魂の光が増すに従って副守は萎縮し、人間を自由にする力が弱るのである。これをたとえてみると、人間誰しも絶えず心の中で善悪が戦っているであろう。これは右の理によるからである。だからいかほど法規を密にし、取締りを厳重にするといえども、それは他動的に抑えるだけであるから、ないよりはましだが、根本に触れない以上、効果は薄く今日のごとき悪世相が生まれるのである。
 こんな判り切った事に、政府も教育家も今もって気が付かないのであるから、不可解である。見よ今日兇悪犯罪が多いとか、青少年の犯罪が激増するとかいって、溜息をつくばかりで、ヤット思いついたのが、ヤレ修身を復活せよとか、教育の方針を改めよとかいうくらいの、カビ臭い智慧より出ないのであるから、吾々からみれば情ないというより外ないのである。皮肉な言い方かも知れないが、ちょうど笊(ざる)へ水を汲んでいたところ、余りに水が洩るので、これではならぬと笊の目を細かくするようなものであろう。
 この文を、社会の指導者諸君に提言するのである。