―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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所謂、迷信の解剖  信仰は飽く迄冷静に

『光』9号、昭和24(1949)年5月14日発行

 ともすれば、本教団に向かって迷信の言葉を浴せるが、一体迷信の真の意味は何であるか、これを解剖してみよう。
 もちろん、迷信とは正信の反対である、とすれば迷い迷った揚句、正しからざるものを正しいと誤り信ずるという事であるが、その正しからざるという意味は果してどういう解釈であろうか、これをまず徹底してみよう、例えば信仰上利益のないものを利益のあるように思わせたり、病気が治るように見せかけてその実効果がなかったり、その宗教の創始者である人物を特別に生神様のごとく信じさせたりするがその実は普通の人間であって巧妙な作為でそう思わせようとする等である、以上はもちろん迷信の説明である。
 ところが病人に対し、医療が治ると請け合うので患者もその医師に絶対の信頼を置き、多額の費用や長い時日を費やしたる結果、予期に反し治らないばかりか死の転機にまで及ぶという事も、また年々多額の国帑(こくど)を費やし、結核療養所を数多く作り、大いに努力するに係わらず、事実は更に結核患者が減らないにかかわらず、いつかは解決さるるという、頼りない希望をもって継続しつつあるという事も、厳格なる意味からいえば立派な迷信であろう。しかしこれらは患者が医学を迷信するよりも、医家が医学を迷信しているという方が当っているかもしれない、いわば善意の迷信である。
 ところが同じ迷信といっても計画的に人を騙すのとは大いに異なり実際は良心的に社会人類のために尽すという動機善であるから非難する事は出来ないが、実を言うとこの善意の迷信は、その迷信者自身が可なりと思う強い信念がある以上、多数者を同化する力も強いのでむしろ社会に与える弊害は大きい訳である。
 以上の理によって本教を解剖してみる時、本教が行っている救いの業は、言うところと行う結果とにわずかの矛盾がないばかりか、むしろ言う以上の良果を挙げている以上、迷信の言葉は当らない。
 ただ今日まで本教の救いのごとき素晴しい例がなかったから信じられないだけの事である、人間はすべて経験にない事は信じられないという弱点があるが、これもまた致し方あるまい、ところが始末の悪い事は、一犬吠(ほ)ゆれば万犬これに習うという諺(ことわざ)の通り、少し信用ある人がいささかも触れてみた事のない癖に非難の言を発すると、群衆は付和雷同するという群衆心理で、これが厄介千万である、しかしながら本当のものはいかに抑えつけられても、非難されてもそれは一時的で、遂には世の信頼を受ける事になるのは真理である、「信ぜよ、さらば与えられん」という事や「信じなければ利益がない」などとはよく言われる言葉であるが、本教に限ってそういう事は決して言わない、むしろ反対に大いに疑えと言うのである、何となれば初めから何らの利益も認めないのに信ずるという事は己を偽る事である、何程疑って疑り抜いても疑り得ない真とすれば、信ぜざるを得ない事になるのは当然である、そうして本教には特に奇蹟があり利益があり過ぎる程である、本教の発展が何よりもそれを証拠立てている。
 しかしこういう事も心得ておかねばならない、世の中には一の利益があると、三にも四にも拡大して有難がる人があるが、これも本当ではない、いわば利益の魔術にかかるので、この点よく間違いやすいのである、ゆえに一の利益あれば一だけ信じ三の利益あらば三だけ信じ十の利益があれば初めて絶対的信仰に入ればいいのである、信仰といえどもいささかの不合理も許されないからである。
 今一つ注意すべき事は信仰は飽くまで冷静を保たなければならない、有難さのあまり熱狂的となり常軌を逸する人が往々あるが、こういう信仰こそ盲信であり狂信であって、かような信仰者を第三者から見れば、その宗教を疑わざるを得ない事となり反って救世の妨害者としての罪を犯す結果となるから、大いに慎まなければならない、従って正しい信仰はどこまでも常識的で品位を損せず、世人から尊敬を受けるようにすべきである。

(注)
国帑(こくど)、国庫の財貨。国財。