―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

help

科学と芸術

『栄光』154号、昭和27(1952)年4月30日発行

 今日の時世は、何でも彼んでも科学で解決出来るように思っているが、ここにどうしても科学で解決出来ない重要なものも幾つかある。しかもそれに案外気が付かないらしい。それは何かというと彼の芸術である。絵画をはじめ幾多の美術工芸品から、文学、音楽、映画、演劇に至るまで、少しの科学性はあるにはあるが、大体としてはその人の天才、叡智、良心、努力等が綜合し基調となっているのは言うまでもないが、事実人間社会に芸術がいかに必要であるかは誰も知る通りで、もし芸術なき社会としたら、無味乾燥さながら石の牢屋に入っているようなものであろう。
 この例として私は町を歩く度に感ずる事は、もし両側に商店も、住宅も、ビルも、デパートも、街路樹も、各家の庭木の青い色も見えないで、監獄の塀のように鼠一色の壁が直線に続いているとしたら、恐らく数丁と歩く事も堪えられないであろう。というように色彩に富んだ家並の美観や、歩いてる人間のそれぞれ異(ちが)った顔々、服装や表情、歩き方、流行を凝らした若い男女の目立った姿、年老いた男女も、田舎から出て来たばかりの人達でも何かしらそれぞれの興味は与えられる。このように千変万化目に映ってくるので、飽きずに歩ける。そうして都会を離れ汽車やバスに乗っても、窓外から目に飛び込んで来る山川草木、田園風景なども退屈を紛らすに充分である。しかも春夏秋冬の気候による様々な変化も、心を豊かにしてくれる。全く、世界は自然と人間の手で作り出される芸術であって、それであればこそ人間としての生甲斐があるのである。こう考えてくると科学といえども芸術の一部であり、補助的役目という事が分るであろう。そのように芸術こそ人生とは、切っても切れない重要なものであるのは、余りにも分り切った話である。
 この意味において我メシヤ教は、今までの宗教には見られない程の関心事を持って、芸術を扱っており、奨励している。とはいうものの単に芸術といっても、上中下の段階がある。同じ芸術でも低いのになると、反って人間を下劣にし、堕落に導く危険さえあるので、これは警戒の要がある。そこでどうしても楽しみつつ、情操を高めるという高度の芸術でなくてはならない。ところが口ではいうものの果してそのような機関があるかというと、外国はいざ知らず、日本においてはその点まことに貧弱であるのは衆知の通りで、この意味において本教が地上天国と、それに付随する美術館を建設し、右の欠陥を補うべく現在実行しつつあるのである。昔から宗教は芸術の母なりといわれるのも、それをよく表している言葉であろう。