―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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結論

『信仰雑話』P.114、昭和23(1948)年9月5日発行

 この著を読了された読者諸君の感想はどうであろうか。忌憚なき批判を聞きたいと思う。私がこの著を書いた目的は随処に見らるるごとく、この混沌たる世相に対し、確固たる宗教的信念を植付け安心立命の境地に導かんとする事であって、小にしては個人の幸福から、より良き社会への改造、大にしては人類文化の飛躍的向上と相まって、永遠の平和確立に寄与せんとするものである。これについて思う事は、原始時代から今日に到るまでの文化の進歩の跡を見る時、素晴しい発達は今更言うまでもないが、はなはだ不可解に思う事は、人間の幸福がそれに伴わない事である。文化の進歩と人間の幸福が伴わないという事に対し、何か重大なる欠陥のある事に気付かなければならない。すなわち唯物的文化に対し、唯心的文化の進歩の跡が見られない事で、いわゆる跛行的文化でしかないのである。
 この意味において私は、大いに後れたる精神文化をして、ここに飛躍的発展を遂げさせなければ、人類の幸福は期し得られない事を痛感するのである。そうして精神文化の発展については、その基本観念ともいうべき霊的事象と、生と死の意義を、徹底的に知らしめなければならない。何としても見えざるものの実在を認識させようとするのであるから、非常な困難を伴う事は当然である。それにはまず私自身の体験を、出来るだけ、主観を避け事実そのままを書くのが必須の条件である。
 この事は今日までの宗教家が説かなければならなかったに拘わらず、それが無かったのであって、たまたま説く者ありといえども、おもに学究的理論のため一般人には難解であり、その他神憑的独善的のものや、神話的寓意的のもの等がほとんどであったから、ともすれば文字の遊戯に陥り、迷信に走り、真に人を救うべき実力あるものは見出し得ないというのが実情であった。しかも近代に到ってそれが益々はなはだしく、従って既成宗教の無力を唱える者が漸く多く、ことに知識人のほとんどは、宗教に帰依する事をもって自己の権威に関わるかに思い、触るる事さえ警戒するというような事実は、何人も知るところであろう。しかるに世相はいよいよ悪化し、その解決方法の唯一のものとして宗教を口には唱えるが、その人自身は前述のごとく関心を持たないのである。
 それのみではない、終戦後の現代青年の問題である。それまで彼等が目標としていた忠君愛国主義のその目標が崩壊したるがため、大方は帰趨に迷い、ある者は絶望的虚無状態に陥り、ある者は自暴自棄となり、犯罪を犯す者さえすくなからざる現状は、洵(まこと)に由々しき問題であるにも係わらず、これに代るべき何等の目標も生れず、また指導力も現われないという現在、ことに青年学生等は経済的圧迫と相まって混迷状態に陥り、不安の日を送っている。実に大問題である。私は忌憚なくいえば、これらの問題を解決すべき力は、遺憾ながら既成宗教には見出だせない事を告白するのである。
 翻(ひるがえ)っておもうに、以上述べたごとき思想問題も、社会問題も、早急に解決しなくてはならないと共に眼を海外に向ける時、これまた容易ならぬ事態の切迫に人類は兢々として不安の日を送っている事は日々新聞ラジオによって知らぬものはあるまい。さきに述べたごとく、文化の進歩と人間の幸福とが並行しない如実の姿をまざまざと見せられている。
 ここにおいて、起死回生的強力な宗教が出現しない限り、世界の前途は逆睹(ぎゃくと)し難いと思うのは私一人ではあるまい。

(注)逆睹(ぎゃくと)、物事の結末をあらかじめ見て取る事。先見。