―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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霊主体従の法則

『栄光』92号、昭和26(1951)年2月21日発行

 この論文は、すこぶる重要なもので、発表にはまだ尚早の感があるが、思い切ってかいたのである。
 まず、現在戦われつつある、南北朝鮮の戦争であるが、御承知のごとく北鮮軍が最初破竹の勢いをもって驀進(ばくしん)南進し、ついに釜山にまで追詰め、南朝鮮今や危うからんとした時、米軍援助の下にたちまち押返して、三十八度線を苦もなく突破し、今や満州国境に迫らんとする一刹那、忽然(こつぜん)として現われたのが、彼の中共軍の大部隊である。何しろ兵隊の数からいっても桁違いである以上、残念ながら逆に捲土重来(けんどちょうらい)的に押返されて、ついに最初のような形になってしまったので、全く最初の勝利は無駄となった訳である。しかしまたまたマ元帥の深謀遠慮の策戦効を奏し連合軍の重圧は、流石(さすが)の共産軍の人海戦術も破綻(はたん)の余儀なきに到り、今や京城危うしと共に、結局三十八度線内に、撤退するのやむなきに至るであろう。
 右は表面に現われた戦局の様相であるが、これを霊的にみるとしたら、どういう訳になるかをかいてみるが、私は常に万有は霊主体従の法則に支配されるという事を唱えているが、それが右の戦争にもよく現われている。というのは方角からいうと東と北が霊であり、西と南が体であるから、南西から北東に向かって進む事は逆になり、風に向かって船を進めるようなもので、非常に骨が折れるばかりか、どうしても一旦押返えされる危険がある。だから私は最初の頃、米軍は朝鮮の最も北東の地点へ、日本海を通って上陸作戦をしなければ、勝てないといった事があるが、果してその通りになったのである。
 これを二、三の例をとってみるが、第二次欧州戦争の時もモスコーまで攻込んで、今一息という時、独軍はついに後退のやむなきに至ったばかりか、ベルリンへ先に侵入したのもソ連軍であった。またナポレオンもそれと同じ運命を辿(たど)った。その他米国の南北戦争にしても北軍が勝ったし、日本の南北朝の争いもそうであったが、しかし例外もあるにはある。それは正邪の場合に限るので、この例は日露戦争が示しているがこれは稀である。ここで私は次の事をかいてみたい。
 私の生まれは東京の浅草橋場というところである。日本の東は東京で、東京の東は浅草で、浅草の東は右の橋場で、その先は隅田川であるからここが東京の最東端である。ところが私は五、六歳の時から、西へ西へと移って往った。まず最初これも浅草区の千束町へそれから日本橋区浪花町へ、次は京橋区木挽町へ、次は大森、それから麹町へ半年ばかりいて、今度は玉川の今の宝山荘へ移った。ここは東京の西端である。ここに一番長くいて、それから箱根と熱海へ同時頃移った。熱海へ来てからも、初め熱海の東端東山へ住み、次で真中辺の清水町へ移り、今の水口(みなくち)町の住居に移ったので、ここは熱海の西端である。以上のように私は生まれた早々から東から西へ西へと向かって段々移って行った。丸で太陽みたいだ。私の目的は昼の世界を作るにあるのだから、そうなるのも因縁といえよう。
 ここで、ちょっと気の付かない面白い事がある。それは今日までの日本は、文化も、宗教も、思想も、ことごとく西興東遷であった。外国は別としてみても、仏教でも神道でもことごとく西に発生し東に移行している。ただ独り日蓮宗だけが東に興ったのみである。これも面白いのは元来仏教は月の教であるが、最後に到ってただ一つ日の教が現われたのである。これは日だから東から出たのが当然であろう。上人が安房の清澄山上朝日に向かって、南無妙法蓮華経を唱え、その時から法華経の弘通(ぐずう)に取り掛ったのも、意味ある事である。
 それ以外の宗教としては、独り我メシヤ教のみであってみれば、本教の将来は想像に難くはあるまい。