―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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理論宗教と行動宗教

『地上天国』3号、昭和24(1949)年4月20日発行

 そもそも宗教の目的は何であるか――などと今更鹿爪(しかつめ)らしい事をいうのは野暮(やぼ)であるが、さらばといって軽々に取扱うべき問題ではない。近頃のような物騒な世相は黙ってみている訳にはゆかない、何とかしなければならないとは誰しも思わない訳にはゆかないであろう。事実安心して生活が出来ないというのが現在の世相である。しかも年少犯罪者の殖えるという事も実に寒心に堪えないところで、日本の前途が想いやられるのである。
 当局も厄気となって犯罪防止に大童(おおわらわ)であるが仲々予期の成果は挙げ得られない。そこで心あるものはどうしても精神的方面から改善してかからねばならない事に気がつくのであるが、いかんせん現在あるところの日本の宗教はどうにも手の出しようがないようである。なぜなれば今日宗教界のエラ方などは、仏教哲学や古典研究にふけったり、学校の教授になったり、中には殿堂の奥深く隠れて著述や経文の筆写等に余念がない。教主様はといえば錦繍(きんしゅう)に纏(まと)われ、生神様や生仏として雲の上に安居し、俗界との交渉は伝統に背くかのように思われている。たまたま民衆に伍して宣伝する専門的布教師もあるが、その言う事が民衆の生活にアッピールする力がなく、実生活に喰入り得ない恨みがある。彼らは声を枯らして仏教理論を説くといえども空理空論が多く、世を救う力ははなはだ微弱と言わねばならない。これら現実に理しない宗教を私は理論宗教というのである。
 以上のごとくであるから、本当に社会同胞を救おうとするには、理論だけでは間に合わない、どうしても直接民衆生活に突入し、信仰即生活というまでに溶け込まなければ駄目である。私はこれを称して行動宗教というのである。しからばそのやり方はどうするのかというと、たとえば今最も日本の悩みとしているところのインフレによる生活苦や、その原因である食糧政策、またそれに関連する労働問題、その他犯罪の防止、政界の浄化、結核問題等々、実に早急に解決しなければならない問題が山積している。吾らはこれらに対して宗教的批判の鋭いメスを揮い、生きた行動によって解決しようとするのである。
 この意味によってわが教団の今現に行いつつある事業も、これから大いに行わんとする計画も、この線に沿うて進んでゆくつもりである。まずその具体化として最近手を染め始めたものに、熱海より十国峠へ向かって約一里の地点に、気候温和にして風光明媚なるなだらかな起伏に富んだ、高燥(こうそう)なる約十万坪の土地である。水も豊富で電力設備も完全である。これは某篤志家から無償で借受け開発に着手したのであるがもちろん信徒のみの労力奉仕によるものであって、大体この事業の目的は二つある。一は無肥料栽培による食糧増産で、理論よりも実際成績を天下に示す事であり、これによって食糧問題解決の一助たらしめんとするのである。そうして当農園は現在三町歩にわたって水田畑作等の耕作をしており、乳牛も数頭あり、高い山は遠く離れているから日当りがよく、熱海の海浜は一眸(ぼう)の下にあり、しかも檜三十万本、杉七万本あって、いずれも二、三十年を経ているから、将来いかほどの建造物に対しても事欠かぬという特点がある。
 また将来は果樹園、花卉栽培、養鶏、牧畜、酪農、綿羊等、出来るだけ多角農業の計画を樹てている。
 次に今一つの目的がある。それは虚弱者、病後の要静養者、特に軽度の結核患者に対する神霊放射能による、信仰療法である。これによって今最も重大視せられている結核問題解決の一助に資せんとするものである。もちろん右療法の結核に対する治癒率の素晴しい事、療養費を一銭も要せざる事、結核は絶対に感染せざる事等の吾々の理論を如実に示し、従来の誤れる結核療法の蒙(もう)を啓かんとするのである。決して大言壮語するのではないが、漸次日本から結核を追放してしまう自信をもって実行に取掛らんとするのである。

(注)
鹿爪らしい(しかつめらしい)、堅苦しい。形式ばっている。鹿爪は当て字。
錦繍(きんしゅう)、錦と刺繍を施した織物。美しい衣服のこと。
高燥(こうそう)、土地が高く湿気が少ないこと。