―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

help

世界人たれ

『栄光』124号、昭和26(1951)年10月3日発行

 これからの人間は、世界人にならなければ駄目だ。これについて面白い話がある。終戦直後ある軍人上りの人が私のところへ来て、憤懣(ふんまん)に堪えない面持(おももち)で「今度の降伏はどう考えても分らない、実に怪(け)しからん」と言って、憤慨しながら話かけるのだが、私の方はサッパリ気が乗らないので、彼は呆れたらしくいわく「先生は日本人ですか」と質(き)くから、即座に「私は日本人じゃない」と答えると、彼はギョッとして、震えながら「ではどこの国の人間ですか」と質き返えすので、私は言ってやった。「つまり世界人なんですよ」その言葉に、彼はポカンと気の抜けたような顔をして、その意味の納得のゆくまで説明してくれろと言うので、私も色々話してやったが、今それを土台にしてかいてみよう。
 元来日本人とか、支那(シナ)人とか言って差別をつけるのが第一間違っている。アノ頃の日本人がそれで、日清、日露の二回の戦役に勝ち、急に一等国の仲間入りをしたので逆上(のぼ)せ上り、日本は神国なりなどと、何か特別の国のように思ったり、思わせたりして、ついにアノような戦争まで引き起したのである。そんな訳だから、他国民を犬猫のように侮蔑し、その国の人間を殺すなど何とも思わず、思いのままに他国を荒し廻ったので、ついに今日のような敗戦の憂き目を見る事になったのである。そのように自分の国さえよけりゃ、人の国などどうなってもいいというような思想がある限り、到底世界の平和は望めないのである。これを日本の国だけとしてたとえてみても分る。ちょうど県と県との争いのようなものとしたら、日本内の事であるから、言わば兄弟同士の食(は)み合いで、簡単に型〔片〕がつくに決っている。この道理を世界的に押拡げればいいのである。彼の明治大帝の御製にある有名な「四方(よも)の海 みな同胞(はらから)と思ふ世に など波風の立ち騒ぐらむ」すなわちこれである。みんなこの考えになれば、明日からでも世界平和は成立つのである。全人類が右のような広い気持になったとしたら、世界中どの国も内輪同士という訳で、戦争など起りよう訳がないではないか。この理によって今日でも何々主義、何々思想などといって、その仲間のグループを作り、他を仇(かたき)のように思ったり、ヤレ国是だとか、何国魂とか、何々国家主義だとか、神国などと言って、一人よがりの思想が、その国を過(あやま)らせるのみか、世界平和の妨害ともなるのである。だからこの際少なくとも日本人全体は、今度の講和を記念として、世界人となり、今までの小乗的考えを揚棄(ようき)し、大乗的考えになる事である。これが今後の世界における、最も進歩的思想であって、世界はこの種の人間を必要とするのである。話は違うが宗教などもそれと同じで、何々教だとか、何々宗、何々派などといって、派閥など作るのは、最早時代遅れである。ところが自慢じゃないが本教である。本教が他の宗教に対して、触るるな〔な〕どというケチな考えはいささかもない。反って触るるのを喜ぶくらいである。というのは本教は全人類を融和させ、世界を一家のごとくする平和主義であるからで、この意味において、本教ではいかなる宗教でも、仲間同志と心得、お互いに手を携え、仲良く進もうとするのである。

(注)
揚棄(ようき)アウフヘーベン。
ヘーゲル弁証法の基本概念の一。あるものを否定しつつも、より高次の統一の段階で生かし保存すること。矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。止揚。