―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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先駆者の悩み

『栄光』202号、昭和28(1953)年4月1日発行

 近頃よく言論機関やラジオなどで、新宗教流行のためかは知れないが、学者、ジャーナリストなどの批判をみると、どうも本教を一番目標にしているらしいから、本教の言い分を少しかいてみようと思う。それについて一番困る事は、全然本教の真相を検討もせずして、単なる想像による自己判断でかいたり、言ったりするのであるから、無責任極まるといっていい。そんな訳で内容と来ては呆れる程見当違いが多く、吾々にとっては迷惑至極である。その中で特に本教をもって一般新宗教と同一に見てる事である。従ってその記事を読んでいる場合、他宗教の批判かと錯覚する事さえある。というのは常にいう通り本教は他の新宗教と根本的に異(ちが)っており、同様な点はほとんどないといっていいくらいである。それのみか、昔からあるいかなる宗教とも大いに異(ちが)っており、そこに本教の本教たる価値があるのである。
 これについて私の言いたい事は、今まで人の行ったと同じようなことをするのは私は好まないばかりか、それは余り必要がないと思うからである。ところが歴史を見ても分る通り、その時代における開拓者、または先駆者の事績こそ尊(とうと)むべく価値あるものと思うからであって、その人達こそ文化を推進させる動力といっていい。私があらゆる面に渉(わた)って創造的新規〔機〕軸を出しているのもその意味に外ならないのである。とはいうもののあらゆる既成文化もそれを改良し、より進歩させる必要もあるから、それに当る人も固(もと)より必要ではあるし、そういう人の数は非常に多いからいいようなものの、新しい発明発見や文化の飛躍に役立つ第一人者に至ってはまことに少なく、恐らく一世紀中に数える程であろう。そうして不思議な事にはそういう人は例外なく一時は誤解の渦中に置かれ、非難の矢を放たれ、はなはだしきは生命の危険にまで及ぶ者さえある。この理由こそいかなる時代でも、進歩は虫が好かない保守頑迷な徒が多いからで、しかもこの種の人が社会の枢軸(すうじく)を握っている事である。という訳で私なども昔から随分迫害、圧迫に堪えつつ進んで来たかは度々かいた通りである。現に終戦前などは、当局の無理解はなはだしく、新宗教などというと特殊扱いをされ、手も足も出なかったものである。当時一番厄介な事は、ともすれば不敬罪に問われる事である。現に彼の天理教教祖の十数回に及んだ投獄禍や、大本教教主出口王仁三郎氏、人の道教祖御木徳一(とくはる)氏なども、不敬罪が因(もと)で長い間の牢獄生活の苦しみはもちろん、ようやく出獄するや間もなく両氏共他界されたにみても、いかに苛酷な扱いを受けたかが察せられる。出口氏のごときは入牢七年に及び、出獄した時が七十歳を過ぎていたのである。ところが幸いなるかな、世は民主主義となり、信教の自由も許されたので、私なども長い間の隠忍(いんにん)生活からようやく陽の目を見られるようになり、宗教活動が出来たのである。
 話は前へ戻るが、最初かいたように、私のやる事は全部と言いたい程型破り的のものであるから、旧(ふる)い頭の人や人並外れて気の小さい人から見ると、解らないのは当然かも知れない。むしろ警戒する人さえあるくらいである。一例として最近こういう事があった。それは“アメリカを救う”の本であるが、この広告を全部の大新聞に出そうとしたところ、その中の一社だけはどうしても応じない。よく訊(き)いてみると“アノ本は余り飛躍した説なので危ぶみ応諾しなかった”」にみても分るであろう。彼のコペルニクスやガリレオが唱えた地動説が、時の官憲から非常な弾圧を受け、ついに牢獄に投ぜられた事にみても、宗教や文化の先駆者が容易に容(い)れられないのは東西を通じて揆(き)を一にしているゆえに、これらの丁髷(ちょんまげ)頭がどれ程文化の進運を阻害しているかは、計り知れないものがあろう。その点アメリカだけは異っている。全然既成観念に捉われず、公平に見てその実績の結果が、従来のそれよりも優れたものなら直ちに採用する事であって、因習や伝統など全然無視する態度である。同国が今日のごとき素晴しい発展を遂げたのはこの点に基因しているのは言うまでもない。現在アメリカの文化と比べて日本は三十年遅れているといわれるのもよくそれを物語っている。何よりも私の説は真理であるから、これを用いる事によって国家人民に対し、いかにプラスであるかは実行すれば直に分るはずである。ただ私の説は時代より余りに進み過ぎているのであるが、ここで遺憾に思う事は、遅れただけ多くの犠牲者が出るのであるから、結果からいえば、救わるべき人が救われない事になり、その結果彼らは善意の罪悪を侵す訳になろう。この点世のジャーナリスト諸君に考慮を求めたいのである。