―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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自観画論

『栄光』103号、昭和26(1951)年5月9日発行

 私は、つくづく現在の美術界、特に絵画の世界を観ると、実に歎(なげ)かずにはおれないのである。それは絵画というものの、本当の在り方を画家自身が、全然弁(わきま)えていないようである。もちろん種々言いたい点があるが、その中の最も重要でありながら、案外気の付かない一事を、ここにかいてみようと思うのである。
 まず、絵画というものの本来の使命である。それは絵画そのものの本質は、単なる画家自身の娯(たの)しむだけのものではない。
 もしそれだけで事済むとしたら、子供が玩具を弄(もてあそ)んでいるのと、何ら変りはあるまい。だからそういう画家としたら無用の存在であって、穀(ごく)潰し以外の何物でもないと言えよう。従って画家たるものは、自分は何がために生まれ、何を為(な)すべきかと言うことを、シッカリ自覚しなければならない。それについて私はこう思うのである。
 まず画家としての存在の意義は何であるかというと、一人でも多くの人間の、目を娯(たの)しませると共に、目を通して観者(みるもの)の魂を向上させる事である。心のレベルをより高く、より善に、より美しくする、それが真の画業である。なるほど、個性の発揮も、製作意欲の自由も、題材もいいが、その線を越えては、何の意味もなさないのである。ところが近来の絵画を見ると、その脱線振りは、到底黙視出来ないものがある。心ある人は眉をひそめている通り、実に怪奇極まるものでいかに贔屓(ひいき)目にみても、何らの美も見出だせず、醜悪そのもので、むしろ不快を通り越して、憤(いきどお)りさえ感ずるのである。
 このような絵を、得々として描く彼らの観念は、個性を表わすというよりも、主観の押売りである。このような絵を並べたところで、観る者の魂の向上どころか、反って逆でさえある。吾々はそういう絵を観る毎に、カンバスと絵具のもったいなさに身の縮む思いがする。これは独り吾々のみではあるまい。もちろん売れるはずもないから、彼ら自身としても、経済的窮乏に追われているとは、よく聞くところである。としたら何ら世の中に貢献するところもなく、自己も苦しんでいるという、全面的マイナスを考えたら、気の付きそうなものだがそんな事は一向ないらしい。としたら一種の精神病者としか思えない。こういう画家は何のために生きているのか、御自分でも解らないだろう。実に存在の空虚なる憐れむべきである。
 もしか今の内に目醒め、軌道に乗らないとしたら、誰も相手にする者はなくなり、滅亡の一途あるのみであろう。右は洋画についてであるが、これは誰も同感であるとみえて、よく非難の声を聞くが、これについて誰も気付かない一事を私は言いたいのである。というのは本来絵画の真の生命は、品位であり、高さである。ところが東洋画は多分にそれが含まれているが、洋画に到ってはまことに少ないどころか、ほとんどないと言ってもいい。もっとも洋画自体は大衆性のもので、大衆生活とは離れられない性格のものとしたら、致し方ないが、しかし洋画は洋画としての独特の旨味があるはずである。ところが、最近の洋画に至っては、レベルが高いとか低いとかの話ではない。もはや美の生命など、疾(とう)に失ってしまって空ッポーでしかあるまい。その絵から受ける感じは醜悪そのもので、不快、憎悪、憤怒、失望以外の何物でもないと言えよう。どう考えてもこの種の画家は、一種の精神変質者である。だからこの種の展覧会を観る毎(ごと)に、私はもし精神病院で、患者の展覧会をしたとすれば、この通りに違いないと思うのである。
 次に、日本画についても少し言いたいが、近来品位の乏しくなった事は、これにも言えるが、由来(もとより)東洋画の特色は品位である。私はいつも、支那(シナ)、日本の名画に触れる時、その高さに打たれて、自(おのず)から頭が下るのである。この東洋画の真髄に対し、今日の日本画家は、ほとんど無関心である。ただ僅かに老大家に残されているだけで、青年画家に至っては、むしろ洋画に追随している傾向さえ多分にある。まことに危ういかなというべきである。この点、私は今の内に目覚めさせなければならないと思い、将来が案じられてならないのである。
 ここで、日本画、洋画に限らず、あらゆる芸術を引括(ひっくる)めて言いたい事は、芸術というものの真の意義である。それは言うまでもなく、人間の智性を深めるのはもちろん、眼を通じて作者の魂を観者に伝え、その魂を高い境地へ導く事である。ただ目を楽しませるだけとしたら、サーカスやストリッパーと同様で、芸術ではない。もちろん美術家も、文学者も、音楽家も、演劇、舞踊も、その他の芸能人についてもいえるであろう。どこまでも芸術を通じて大衆の心をアッピールし、人間に内在する獣性を少しでも抜く事である。文化性をより豊かにする事である。それ以外芸術の存在理由はあり得ないのである。としたら何よりもその客観性である。客観性が多い程芸術的価値があるのである。どれほど御自分だけで素晴しいと思っていても、いわゆる世間に通用しないとしたら、不換紙幣(ふかんしへい)でしかない。彼らのいわゆる個性の発揮も、悪い事ではないが、それだけでは主観を押付ける一種のファッショである。何としても大衆と共に娯しむものでなくてはならない。昔から名人巨匠と言われる人の作品をよく見るがいい。彼らの芸術がいかに範囲が広く、識者も大衆も娯(たの)しませ、魅了させずにはおかないその神技は、今日見ても躍如としている。
 次に言いたい事は、現在の日本文学である。遠慮なく言えば、そのレベルの低過ぎる事である。ひたすら大衆に迎合(げいごう)し、低俗な時代風潮に乗り、流行作家となってヤンヤと言われればいい、理想もヘチマもない。映画になって儲かればいいというだけで、それがよく作品に表われている。読む間、見る間ただ面白かったと言うだけで、何にも残らない。ただ味だけで栄養のない食物と同様だ、一時的興味を満足させる見せ物である。こういう低劣極まる芸術が、いかに大衆の品性を下向させ、犯罪の温床とさえなりはしないかと、心配するのは吾らのみではあるまい。といってもたまには社会の欠陥を剔出(てきしゅつ)し、問題を抛(な)げかけるものや、作者の主張を訴えるものもないではないが、日本のそれはいかにも薄ッペラで小さい。真に読者の魂を揺り動かす程のものは見当らない。というのは、日本の文学者階級に、何よりも宗教心が欠乏している事が、その原因と思うのである。
 そこへゆくと彼のシェークスピヤ、トルストイ、ユーゴー、イプセン、バーナード・ショウ等の大作家の作品である。実にスケールの大きさと言い、鋭い文明批判や、革命的思想、宗教的正義感等が滲み出ていて読む者の魂に迫るものがある。その時代は固(もと)より、今日に至るまで大衆の魂を掴んでいる。その力こそ芸術の高さでなくて何であろう。
 以上は、思いついたままかいたのであるが、この私の説の幾分なりとも、芸術家諸君において、受入れられる点があるとしたら、満足である。


(注)
不換紙幣(ふかんしへい)、正貨と引き換える保証のない紙幣。
ファッショ、イタリアのファシスト党の政治理念。全体主義的で一党独裁。市民的政治的自由の抑圧。侵略政策をとる。合理的な思想体系をもたず感情に訴える。国粋的思想。