―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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信仰は信用なり

『光』13号、昭和24(1949)年6月18日発行

 そもそも宗教信仰者は世間無数にあるが、真の信仰者は洵(まこと)に寥々(りょうりょう)たるものである、しからば私は真の信仰者とはいかなるものであるかを書いてみよう。
 いか程立派な信仰者のつもりで自分は思っていても主観だけでは何らの意味もない、どうしても客観的にみてのそれでなくては本物ではないのである、そのような信仰者たるにはどうすればいいかという事をまず第一に知らねばならない、そうなるには理屈は簡単である、それは人から信用される事である、例えばあの人の言う事なら間違いない、あの人と交際をしていれば悪い事は決してない、あの人は立派な人である――というように信用される事である。
 それでは右のような信用を受けるにはどうすればいいかというとこれも訳はない、何よりも嘘を言わない事と自分の利益を後にして人の利益を先にする事である、いわばあの人のお蔭で助かった、あの人につき合っていれば損はない、実に親切な人だ、あの人と遇うといつも気持がよい――というようであれば、何人といえども愛好し尊敬する事は請合いである、何となれば自分自身を考えてみれば直ぐ判る、右のような人と識り合うとすればその人と親しく交際したくなり、安心して何でも相談し、いつしか肝胆相照らし合う仲になるのは当然である、今一つ言いたい事は、どんなによくしても一時的ではいけない、ちょうど米の飯と同じようでちょっとは味がないようだが長く噛みしめれば噛みしめる程味が出てくる、人間は米の飯とは一日も離れる事は出来ないと同じように私は常にいうのであるが、人間は米の飯人間にならなければいけないと――。
 ところが世間を見ると、右とは反対な人が余りに多い事である、それはわざわざ信用を落すような事を平気でする、何よりもジキに尻からばれるような嘘をつく、一度嘘をついたら最後外の事はどんなに良くても一遍に信用は剥げてしまう、全く愚の骨頂である、いか程一生懸命に働き苦心努力をしても一向運がよくならない人があるが、その原因を探れば必ず嘘をついて信用をなくすためで、これは例外がないのである、全く信用は財産である、信用さえあれば金銭の不自由などは絶対にない、誰でも快く貸してくれるからである。
 以上は、人間に対しての話であるが今一歩進んで神様に信用されるという事、これが最も尊いのである、神様から信用されれば何事もうまくゆき歓喜に浸る生活となり得るからである。