―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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真理を説く

『救世』58号、昭和25(1950)年4月15日発行

 私の唱える説のほとんどは、どこかに今までと異(ちが)った意味が含まれている事を認めない訳にはゆくまい、というのは今迄唱えられて来たあらゆる説は世に知れ亘り、今更新しく書く必要はないからである、今日何程巧妙に説いてみても、それは畢竟(ひっきょう)同じ説の焼直しに過ぎない以上、徒労以外の何物でもあるまい。
 なるほど、古くから幾多の聖賢や偉人が輩出しては立派な教や説を唱え、人類に稗益した功績はいかに高く評価しても差支えないが、さらばといって世界の進歩につれてその有用価値が薄れてゆくのもまた止むを得ない現実であろう、とすれば今日以後の時代に役立つべき新しい説が生まれなければならない、言うまでもなく現代人が切実に要望するところのものはこれである。
 なるほど既成宗教の教説なども、その当時の民族には極めて大きい価値があった事はもちろんであり、その内容においてもその時の人間の文化程度に適応したものには違いなかったであろうが、長い年月を経た今日、大衆にアッピールする力のありようはずがないのは事実がよく物語っている、しかも大抵の宗教は中途において、幾人かの学者や賢哲がその時代に適応すべく改竄(かいざん)し歪(ゆが)められた点も相当あるにはある、かような訳で、現存せる宗教自体、現世を救うべき力の大半は失われてしまったといってもよかろう、しかも問題は古典や文献の難解な点である、宗教とさえいえば一人の開祖の説でありながら各宗各派に分れ、中には宗教争いさえ絶えないものもあるのであるから、真に大衆に安心立命を与える力などは、木によって魚を求むるの感なくんば非ずである。
 元来宗教の本質は真理の具現であってみれば、真理を解く事によって人間の精神的改造が何よりも重要事である、従って他の事業例えば社会事業のごときは派生的のものであるに極わらず、それが宗教本来であるように思われて来たのは全く宗教認識に欠陥があるのである、しからば真理とは何ぞやという事でこの徹底がなければならないが実をいうと真理ほど簡単で判りやすいものはないのである、ゆえに難解なややこしいものほど実は真理に遠ざかっていると見るべきである、たとえば真理とは東から太陽が出て西へ沈み、人間が空気を吸って飯を食い糞を垂れるというのと同じである、それをどう間違えたのか昔から真理を非常に難しく考えられて来たがそれは理由がある、すなわちその見真実者が現れなかったからで、それというのも根本は夜の世界であったからである。
 私は四十幾歳の時、重大使命を神から命ぜられると共に、何人も到達し得なかった見真実の境地にまで上ったのである、もちろんその境地にあって一切を眺める時、現代文化の余りに誤謬の多い事に気が付く、従って一切を明々白々に晒(さら)け出し全人類の一大啓蒙こそ救いの根本であらねばならない、この意味において私の唱える事も行う事も、今までのそれとは余りに異っており、万事型破り的なものばかりである、見らるる通りいかに深遠微妙なる真理といえども、いとも平易簡単に解明する、いかなる学者にも非学者にも理解され得るように説くのである、しかしここに困る事は、私が説くところの真理は長い間非真理を真理と錯覚し、固く守られて来た人達の眼には非真理に誤解されやすい事であるが、これも過渡期の一時的現象としてまたやむを得ないところであろう、しかし真理はどこまでも真理である以上、時の進むに従って漸次理解されるのは当然で、それが真理の真理たるゆえんでもある、何よりも本教教線が、前例を見ない程の発展ぶりが、それをよく物語っているのである。