―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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宗教即奇蹟

『栄光』99号、昭和26(1951)年4月11日発行

 昔から、宗教に奇蹟は付物とされているが、全くその通りである。この点自画自讃ではないが、我救世教程奇蹟の多い宗教は、恐らく古住今来例があるまい。しからば、なぜ本教がそれ程奇蹟が多いかという事を、簡単にかいてみるが、それは本教の主宰神である神様が、最高最尊の御神格を有せられるからである。
 世間では、神様とさえ言えば、それほど差別はないものとして、同一に見て拝む傾向がある。ところが単に神様と言っても、上中下の階級があって、最高の神様から段々下って、産土神(うぶすながみ)から天狗、龍神、稲荷等までもあるのだから、この点をよく認識しなければならないのである。だから神様の階級について詳しくかきたいが、そうすると他の宗教の神様を暴露する事になり、どうも面白くないから、遠慮してかかないのである。前述のごとく、本教主宰神の御神格がいかに高いかを、一つの例を挙げてかいてみよう。本教浄霊の、いかに素晴しいかは、今更言う必要がないくらいだが、日を経るに従い、段々世間に知れるにつれ、それが発展の一大要素となっている事ももちろんである。そうしてまたこの浄霊による病気治しについて、誰でも不思議に思う事は、疑っても、物は試しだと思っても、こんな事で治るもんかと思っても、思わなくても、同じようによく治る。今までの信仰的病気治しは、ほとんど初めから信ぜよ、疑ってはならない、というのが通例であったから、それに馴れ切っている人の頭では、前述のごとく不思議に思うのも無理はないのである。よってこれはどういう訳かをかいてみよう。
 まず、何もない内から信ぜよというのは実は己れを偽る事である。何ら実証も見ない内から、信ずるなどは出来ない相談である、としたらこれは間違っているのは言うまでもない。
 しかしながら言われた通り、一生懸命信じようと努めるのは、疑うよりも幾分の効果はあるにはあるが、それは神が下されたものではない、全く自力でしかない。しからば、なぜこの間違った事が、当然のように、今まで思われて来たかというと、つまりその神様の力の足りない事を知らなかったからで、その足りない分を人力で補うという訳である。この意味において本教のごとく、疑っても治るという事は、他力の力が大きいから、自力を加える必要がないからである。従って治病力が足りないという事は、その神仏の位が低いためである。
 また、こういう事もよくある、それは思うように御利益(ごりやく)がないと、その教師なり先輩なりが決まって言う事には、あなたの信仰がまだ足りないからと言い訳をする。ちょうど御利益なるものは、神様から恵まれるというよりも、人間の努力で引き出すように思うらしい。本来神様は大慈大悲であるから、御願いしただけでも、必ず御利益は下さるものである以上、人間が一生懸命になり、度を越すと反って、本当の神様ならお嫌いになる。特に断食とか、茶断ち、塩断ち、水を浴びたり、お百度参りするなどは、最も神意に添わないのである。何となれば、神様の大愛は、人間の苦しみを厭(いと)わせ給うからである。考えてもみるがいい、人間は神様の子であるから、子の苦しむのを喜ぶ親はないではないか、ゆえに苦行によってたとえ御利益があっても、それは本当の神様ではなく、邪神に属する神様である。何よりもそういう御利益は、必ず一時的で長く続くものではない。ところが、本当の神様の御利益というものは、信仰すればする程段々災いは減ってゆき、安心立命の境地に到達し、幸福者となるのである。
 要するに、御利益を得たいため、無理に信じようとするのは、低級宗教であって、疑っても信じないでも、神様の方から御利益を下さる、これが高位の神様の証拠である。