―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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宗教の観方

『救世』60号、昭和25(1950)年4月29日発行

 世人が宗教を観る場合、はなはだ正鵠(せいこく)を得ていない事に気がつく、それは宗教なるものの地位である、というのは宗教は他の何ものよりも最高に位するものであるからである、ゆえに哲学も、道徳も、科学も宗教からみれば以下の存在であるのはもちろんである、ところがそれを知らないため宗教哲学などという言葉があるが、これは宗教を哲学的に解釈しようとするもので全く逆である、形而上(けいじじょう)のものを形而下(けいじか)の理論で解こうとするのである、何となれば宗教は神が造ったものであり、哲学は人が造ったものであるからである、また、宗教と道徳とも異(ちが)う、もちろん道徳も人が造ったもので、ただ哲学と異うところは、哲学は科学的、西洋的であるに反し、道徳は心理的、東洋的のものである、また科学は哲学や道徳に比べて一層形而下的で、宗教と隔たる点の最も著るしい事はいうまでもない。
 以上によってみても、現代有識者の宗教観がいかに当を得ていないかが判るであろう、しかし右を今一層徹底してみるとこういう事になる、元来哲学とは、人間の創造的理論の組み立てによって今日に到ったものであるから、宗教と較べる時その価値は自ら明らかである、究極するところ壁にブツかってどうにもならなくなる、その証拠には哲学は研究すればする程迷路に落込み、懐疑は懐疑を生み、到底結論は得られない結果、厭世的になりやすく、極端なのは自殺によって解決しようとするものさえあるくらいで、これは誰も知るところであろう。
 次に、道徳であるが、これは今日まで相当人類社会に貢献したのはもちろんであるが、これとても有能者の頭脳から生まれた、一種の戒律的人心を改善するものであるから、人間の魂を根本的に揺り動かす事は出来ないのみならず、昔の日本なればイザ知らず、今日のごとく一切が西洋文化に支配されている以上、道徳という東洋的なものでは、最早今日の人間を納得さす事は出来得ない、何よりも道徳の影は漸次薄れつつあるにみて明らかである。
 次は、唯物科学であるが、これは吾らが常に批判しつつあるところで、今更言う必要はないが、とにかく、現在文化といえば、科学そのものとしているくらいで、文化の進歩とは科学の進歩と観ている現状である、ところが、科学の進歩によって人類の幸福はいかに増大されたかは疑問である、むしろ正比例的に不幸の増大をさえ思わしむる事実である、今日恐るべき原爆戦争の脅威に晒されている世界人類を見れば多言を要しないであろう。
 ここにおいて、一体、全人類は一部の例外を除き、何を望んでいるであろうかを検討してみる時、言うまでもなく幸福そのものである、科学の進歩発達も、人類の幸福を目的としたものに外ならないが、悲しいかな、事実はその逆でさえある、とすればその根本を探究する事こそ今日の急務であらねばならないのである。
 さきに述べたごとく、哲学でも道徳でも科学でも解決の力がないとすれば宗教以外に何があるであろうか、この点、識者においても気のつかない事はなかろうが、事実宗教といえば現在までの既成宗教を標準としている以上既成宗教によって右の条件を解決出来ようとは思えないのである、従って人類の幸福などは、いつの日に達成さるべきか見当さえつかないのであろう、何となれば実に暗澹(あんたん)たる世相である。
 しかるに、以上のごとく諦め切ってしまった世界へ出現したのが吾らの超宗教的一大救済力である、恐らく何人(なんぴと)も夢想だもしなかったもので、容易に受入れ難いではあろうが、しかし事実を否定する事は出来ない、何よりも一たび本教の真相を知るにおいては盲目者が開眼の喜びに遇ったごとく豁然(かつぜん)として覚醒するのでその喜びの報告は、本教刊行物に満載されているのが何よりの証拠である、ゆえに真の幸福を得んとする人達よ、まず試みに本教に触れてみる事である、いかに美味なる食物でも説明を聞き、眼でみるだけでは判るはずない、まず口へ入れて味わうべきで、味わってみて始めて判るのである、恐らく今まで味わった事のない醍醐味に何人といえども満足せずには置かないであろう。

(注)
形而上(けいじじょう)、形をもっていないもの。哲学で、時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できないもの。超自然的、理念的なもの。
形而下(けいじか)、形をそなえるもの。自然一般の現象。