―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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展覧会を観て(上)

『栄光』70号、昭和25(1950)年9月20日発行

 私は今度久し振りで、上野に開催中の二つの展覧会を観た、一つは院展、一つは二科会である、どちらも現在日本における東西絵画の代表と思ったからだ、そこで見たままの印象を、ここに赤裸々にかいてみよう、今まで多くの展覧会を見たが、今度程不思議な感に打たれた事は無い、失望と悲哀は私の心を暗黒にしてしまった、日本には最早絵否油絵はなくなった、美の芸術は最早見られそうもない、どんなに贔負目(ひいきめ)に見ても、今日見た絵画からの印象は絶望そのものであり、怪しき惑乱感だ、数点は絵画らしいものもあったが、大部分は奇怪極まる妖画でしかない。
 まず、院展を見た感想からかいてみるが、既往を顧みると、院展も発足の最初はとにかく当時の画壇を断然引き離して、一種独特の新境地を拓き、時代の先駆者としての栄誉を荷ったのは誰も知るところであろう、もちろん当時の旧形式に飽き足らなかった画人の群は、流行を追う女性のように、院展目指して追い駈けたのはもちろんだったが、いつの間にか追いついてしまった事だ、その中で錚々(そうそう)たる純院展派も出来、いわゆる中堅幹部として、有名画家と残った幾人かはあった、しかし不思議にも御大(おんたい)の齢のように、院展の歩みは遅々となり、停頓は憧憬(しょうけい)画人群をさ迷わしてしまった。

京都画壇を見る

 ここで、当時の京都画壇を一瞥してみよう、当時竹内栖鳳(せいほう)氏は京都の画壇に鎮座ましまして、大御所的威を張っていたので、東の大観に対し西の一敵国の概(がい)があった、もちろん京都派の有為(ゆうい)の画人は、東京と同様栖鳳を追随したのはもちろんである、しかし栖鳳逝(ゆ)いて後、盲人の杖を失ったごとき寂莫(せきばく)たる観を呈した、その間僅かに栖鳳に倣わず、独自の技を発揮していた者に橋本関雪、冨田渓仙の二鬼才があったが、この両者共これからと言う時、物故してしまったのは惜しみても余りある。
 今、東西画壇を見渡した時、残念ながら将来性をもつ画人はほとんど見当らないといえよう、なるほど現在、強いて求むれば、東京においては古径(こけい)、靱彦(ゆきひこ)、青邨(せいとん)、龍子(りゅうし)、遊亀(ゆうき)、西に在っては平八郎、印象(いんしょう)くらいであろう、なるほどこの人達も上手の域には達しているが、画壇を指導する程の実力はいまだしの観がある、実に心細い限りであって、吾らの鑑賞欲もともすれば現代画から離れようとするのは致し方なかろう、ただ僅かに残っているものに玉堂(ぎょくどう)がある、もちろんその技に至っては、大観、栖鳳に比べていささかの遜色もないが、この人の恬淡(てんたん)たる風格は、何ら野心なく奥多摩に幽居して世と交(まじわ)らず、ひとり画業を楽しんでいる、これは当時偉とするに足ろう、ゆえにこの人は国宝的存在として静かに余生を送る事を願うのみである、こう見て来ると、日本画現在の淋しさは、私感のみではなかろう。
 ここで、今一層深く論じてみなくてはならない、彼大観は老齢のためか往年の精気なく栖鳳はすでに失い、とすればこの二大目標に代るべき巨匠が出ない限り、日本画壇の行詰りは当然である、ここに至って日本画壇の新しい針路を見出さざるを得ないと共に、時代はそれに味方するように動いて来た、それは西洋画に活を求める事だ、しかしこれは日本画の生命を没却した一時的自慰以外の何物でもない。

近来の作品

 見よ、近来の作品を、日本絵具を油の代用にしているまでだ、これは自己を生かさんとして、自己を殺す事だ、しかしながらレベル以下の画人層は自己満足でそれでいいだろうが、レベルの上に立つ画人は浮薄なる流行を追う事は出来ない、と言って超然たる事も出来ない。それは時代の落伍者扱いを受けるからだというジレンマにかかっている、それが作品によく現れているから致し方ない、そうして院展の存在確保のためにも御大はじめ、三羽烏の出品は欠くべからざるものであろう、そのお座なり的が作品に現れていて、生気なき事おびただしい、吾らはそぞろ悲哀を感ぜざるを得ない、世間言うごとく大観老(おい)たるか、今度画伯の鳴戸の絵を観て、右の言の否めない事を知った、何ら新味なく相変らずの唐墨(からすみ)で描いた黒い岩と緑青(りょくしょう)と岩絵具の波である、水が一段低いところへ流下し、出来た二つの渦巻がある、どうみても変だ、何とか今少し工夫がありそうなものだと思った、数年前のこの種の絵の方が数段上だと思うのは、吾らのみではあるまい、また古径氏の女と壺の絵にしても落款(らっかん)がなければ見過ごすところであった、靭彦氏の大観先生の像は可もなく不可もなしか、青邨氏の鯉は凡(ぼん)である。

私の目をひいた絵

 ただ今度の院展でともかく私の目をひいた絵が一つあった、それは小倉遊亀女の瓶花(へいか)の図である、ガーデニヤの八重三輪を眼目とし、呉須(ごす)赤絵の瓶にさし、二、三の他の花を遇(あしら)った、そのポーズも色彩も賞めてよかろう、特に余白を淡墨(うすずみ)でぼかし、静物を引立たせた意図は心憎い程である、以上私が見たままの感想である。

(注)
竹内栖鳳(たけうち・せいほう、1864―1942)、明治33年パリ万国博覧会で受賞、ヨーロッパ各地をまわって、翌34年帰国。棲鳳から栖鳳に号を改める。大正2年帝室技芸員、大正8年帝国美術院会員。京都伝来の円山四条派の写生風を基礎として、大和絵や漢画の古典的手法を加えて、さらに外遊後は洋風の表現をもとり入れ、近代日本画の先駆となった。
冨田渓仙(とみたけいせん、1879―1936)、明治12年福岡県に生まれる。12歳で狩野派を学び、明治29年京都へ出て、都路華香の書生になり四条派を学ぶ。文展出品作「鵜舟」などが横山大観に認められ院展へ参加。大正4年第2回院展出品作「宇治川の巻」、昭和8年第20回院展出品作「御室の桜」などが代表作。
呉須赤絵(ごすあかえ)、中国明末清初の時代、中国南部の地方窯でつくられた赤絵のこと。赤・青・緑に黒の線描きが加えられているのが特徴。日本へ渡来し、茶陶としての用途に重宝された。