―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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超科学

『栄光』222号、昭和28(1953)年8月19日発行

◇左の稿は目下執筆中の、医学革命の書中の一節である。

超科学

 私は先日ラジオで、最近帰朝した湯川博士を囲んでの、座談会の録音を聴いたが、それによると最近科学の方でも、余程私の説に接近して来たようで、喜びに堪えない次第である。それによれば素粒子論に対して、物性論という新しい説を話されたが、それは素粒子は目に見える粒子であり、物性論は目に見えぬ原子をいうらしいが、もちろん前者は実験物理学であり、後者は理論物理学であるから、これこそ私が唱えている前者は体であり、後者は霊という事になる。としたらようやく科学も吾々の方へ鞘(さや)寄せして来た訳である。
 これについて従来から理論物理学者が新説を立てる場合、想像、推理、仮定が基本となり、実験に移るのであるが、湯川博士の場合もそうで、初め新発見の中間子(素粒子)にしても、幸い米科学者が実験中、宇宙線撮影の際偶然発見され確認されたので、その功績がノーベル賞授与となった事は衆知の通りである。ところがそれに一歩前進した理論が右の物性論であり、この研究が現在主眼となっているようだ。しかしながらこれが実験によって確認されるまでには、まだ相当の迂余曲折(うよきょくせつ)を経なければならないと共に、事によると意外な難関に逢着(ほうちゃく)するやも知れないと思うのである。というのは現在の顕微鏡がそこまで発達するには容易ではないからで、そうかといって仮にこの物性子が実験によって把握されたとしても、それだけでは何ら意味をなさない。要はそれが人類の福祉にどれだけ貢献されるかである。ところがこれに対して科学では夢想も出来ない重点がある。それは現在以上科学が進歩するとすれば、吾々が常に唱えている霊の圏内に飛込んでしまうからである。霊の圏内とはもちろん宗教であるから、そうなると当然科学の分野から離れてしまい宗教に隷属(れいぞく)する事となる。という訳で唯物科学の現在は進歩の極致に達し、今や壁に突当らんとする一歩手前にまで来たと言える。従って壁を突き破るとしたら、顕微鏡の能力を今より数倍以上、数十数百倍にも引上げなければならないかも知れないがそれは無理である。よしんばそれが可能としても、何世紀かかるか見当はつかないであろう。以上によって考えてみても、今後の世界は科学でも哲学でも既成宗教でもこれ以上の進歩は至難とみねばなるまい。この意味においていよいよ現在文化のレベルから超越したX(エックス)が現われる時が来たのである。このXの一大飛躍によって現在のごとき行詰り文明の一大危機を打開し驚嘆すべき新文明を創造するのであって、それが私の使命である。
 次に素粒子論と物性子論について一層深く掘下げてみよう。そうして私の唱えている素粒子とは物質を構成している細胞のごときものであり、それは物と霊子との結合である。換言すれば前者は陰子であり、後者は陽子である。これがあらゆる物質の本体であるが、今日までの科学はそこまでは未発見であった。ではこのような高度の科学理論に対し、私のような浅学の者がなぜ発見出来たかというと、もちろん主神(すしん)が必要によって私に教えられたのであるから、私は史上何人(なんぴと)も知り得なかった万有の真理を会得したと共に、実験科学的にその実証を示す力をも与えられたのである。それがこの著の付録である治病実績報告であって、もちろん多方面の信徒から寄せられたものである。なお言いたい事は宗教にしろ科学にしろ、最も貴重なる人間の生命を救い得るとしたら、これ以上の福音はあるまい。今その原理を詳しく説明してみよう。
 言うまでもなく人間は万物の霊長であり、地球の王者であり支配者でもあり、天地間一切の万有ことごとくは、人間のために必要な存在であって、第一は人間の生命を保持し、第二は一人一人の使命を援助しているのはもちろんである。という訳で生命力をより旺盛に、健康で活動出来るようになっているのが人体である。としたらたまたま健康が害(そこ)ねられ、生命を脅かすものとして病気なるものが発生した以上これを排除すべき作用が起るのは当然であって、何ら不思議はない。考えるまでもなく他の条件がいかに具備しても不健康である限り、人間使命の遂行は出来ないからである。この意味において科学でも宗教でも何でもいい、病さえ解決するものなら、それが真の科学でもあり、宗教でもある。としたら現在までの宗教も科学も遺憾ながらその能力がないから、真の科学でも真の宗教でもない事は分り切った話である。としたら正直にいって現在までの文明は仮のものであって、本当のものでない事は余りにも明らかである。

(注)
鞘寄せ(さやよせ)、相場の変動によって値段の開きが小さくなること。