―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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時の神様

『地上天国』5号、昭和24(1949)年6月25日発行

 一切万有人事百般、時の神様によって支配されないものは恐らく一つもあるまい。興亡常なき歴史の推移も、善悪正邪の決定も、時の神様から離れて存在するものはない。そういう意味で今日善であったものが、何年かの後には悪となり、今日真理としたものも何年後には非真理として見放される事も、今日華かなるものも何年後には衰亡の運命をたどるというような事も、過去の歴史が遺憾なく物語っている。ゆえに絶対の善もなく、絶対の悪もないといわれるし、また昔から正邪一如という言葉もあり、いずれも真理である事に間違いはない。
 近い話が終戦前、忠君愛国を無上のものと信じ、唯一の生命を軽々しく扱った日本人が今日はどうであろう。およそその時の目的と余りに背馳(はいち)した結果となり、悲惨なる運命の下に喘いでいる状を見ては、いかに誤っていたかは国民の脳裏に深く刻まれたであろう。これらも終戦という掌を返した一瞬に変化したのであっていうまでもなく時そのものの決定である。
 吾々が知る限りにおいて、あまり古からざる歴史においての例も見逃し難いものがある。彼の徳川氏盛んであった時代が、明治維新という一線を画すや、それまでの大名旗本等がことごとく転落し、それに引換え名もなき一介の書生が大臣参議となった事などを見ても、今日の状勢と相似たところがある。終戦までの特権階級であった幾多の皇族、華族、富豪等の転落ぶりは、人々の眼にいかに映ずるであろうか。言うまでもなく時の神様による事はもちろんである。彼の大本教祖のお筆先に「時節には神も敵わぬぞよ」という言葉があるが、うがち得て余蘊(ようん)なしである。ゆえに吾らは、地球上における一切の支配者こそは時の神様であると断定しても差支えないと思うのである。
 以上の意味において、人間は時という絶対者に大いに関心を払うべきであると思わずにはいられないのである。

(注)
余蘊(ようん)、余分の蓄えから転じて、余すところ。残るところ。