―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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私が神様を拝まぬ理由

『地上天国』43号、昭和27(1952)年12月25日発行

 私は神様を拝んだ事がないのは、信者はよく知っているが、恐らく昔からあるどんな宗教の教祖でも、そういう例は絶対ないであろう。という訳で信者の中でも疑問に思う人もあるであろうから、ここにかいてみるが、元来私という者は、神格上からいって最高地位にあるので、私より上位の神様はこの世の中にないから、拝む訳にはゆかないのである。従って本当をいうと八百万の神ことごとくは、私の部下と見ていいのであるから、私はあらゆる神仏を救う力をもっている以上、近来霊界においては私に縋って罪を赦さるべく謝罪すると共に、今後メシヤ教の仕事を手伝わして貰いたいと願望する神仏は、数知れずというくらい出て来るので私も出来るだけ救ってやりたいと思っている次第である。こんな事をいうと神仏ともあろうものが、御詫びをする程の罪を犯すなど、到底信じられないという人もあろうが、それはこういう訳である。すなわち夜の世界の間は本当の事が隠されているため、よいと思ってした事が、実は邪神のお手伝いをしていた事に気がついたので、それを知って慌て出した訳である。それはいよいよ審判の時が迫って来た事で、愚図愚図してはおれないから、何とかして救って貰いたいと急にそうなったのである。そこへゆくと人間の方は現界だけしか見えないからウカウカしているが、仮にも神仏である以上、霊界の事は何でも見えるし、すべての事は霊界が先になるからよく分るので、何ら執着なく、右のような態度に出たのである。この事は最近本誌毎号載せている多賀夫人の霊憑りの通り、各宗の開祖、教祖の霊が、後から後から嘆願に出て来るにみても分るであろう。
 また話は違うが本教の経綸にしても、私の思う通りすべてがスラスラとしかも迅速に運んでゆく。これは改心した神仏の霊が主神の命によって、霊界で大いに活動しているからでもある。そのの例として近来容易に手に入らないような、素晴しい仏像なども次々手に入る事で、これらもその宗祖、開祖や高僧達が、霊界で活動し、手柄を立てようとしているからである。その他仏教以外の美術品にしても、その作者や持主であった人達の霊が働いて、私の手に入るように仕向けるので結構とも思うが、ここに始末の悪い事がある。というのはそれらの霊が世の中に生きていた時代は、経済観念などの必要がなかったが、今日は丸っきり違っている事に気付かず、ただ品物さえ運べばいいと思っているのであるから、現界人たる私はそのための金の支出も相当なものである。そこでいつも嬉しい悲鳴を上げている次第である。
 次に私の神格の現れとしての今一つの事をかかねばならないが、知っての通り私の治病力の素晴しい事である。言うまでもなく光という一字を懐へ入れただけで、何千何万の人が救われると共に、何百何千里離れたところで、危険に見舞われた死の刹那でも、私を祈願すれば助かる奇蹟である。
 そうして目下地上天国を造りつつある箱根、熱海にしても、今日までの数々の奇蹟もそうだが、今度の京都の平安郷も最初の困難な条件を突破し、スラスラ短期間に手に入ったのを思い合せても、ただただ感嘆の外なく、しかもその土地の位置といい、環境といい、京都第一という事が最近分ったので驚いている。もちろん最初からそういうところを探したのではなく、全く自然にそうなったのである。というように神様は最初地球を造る時から、全世界隈なく救世教出現に対する準備をされた事で、これこそ一点の疑う余地はないのである。以上思いのままをかいてみたが、余りに自画自讃にすぎるので記き辛いが、そうかといって一応は知っておかねば、今後出て来る私の経綸の余りにドエライので、見当のつかない事もあろうと思うから、あらかじめ概念を得させようとここにかいたのである。