―― 岡 田 自 観 師 の 論 文 集 ――

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唯物主義と唯心主義の戦

『地上天国』11号、昭和24(1949)年12月20日発行

 ジャーナリストはほとんど本教を迷信邪教というが、これはどういう訳であろうか。端的にいえば彼らと吾々とは観点が異(ちが)う。唯物主観によって唯心的を批判するからである。という事は唯物主義とは文字通り判然と眼に見える存在であるから、何人も把握し得るが、唯心主義に至っては不可視である以上、どうしても否定する事になる。ゆえにただ単に比較さるる時、唯心主義の方は実に歩(ぶ)が悪いのは致し方ないのである。
 しかしながら唯物観は眼に見え、五感に触るるだけのもので局限されている以上小なる存在ともいえる。それに引換え唯心観は無限大である、いわば地球の大きさに対する際限のない宇宙の大きさともいえる。今ここに眼で見得る程度としては精々富士山くらいで、数十哩(マイル)に過ぎないが、眼に見えぬ想念は地球の涯(はて)はおろか無限大に拡がり得る事も一瞬にして可能である。ちょうど大海が唯心観ならば、それに浮いている船が唯物観であるともいえよう。
 以上の理によって、唯物主義は仏陀と同様唯心主義者の掌に何千里か駈けたが、とうとう負けてしまった孫悟空にも似ている。また他の例を借りていえば、彼の釈尊が唱えた一切空の説も、唯心観から唯物観を対象としたものであり、生者必滅会者定離もそうであり禅のいう「形あるもの必ず滅する」という悟りもこれである。もちろん唯心観は永遠無窮の生命体である以上、有限であるところの唯物観で、唯心観を批判するのはいかに誤っているかが判るであろう。ちょうど小さな壺へ象を入れようとするものであり、葭のずいから天井を覗くようなものである。
 唯物主義者よ! この説を読んでもっていかんとするや!